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妻が無職である時間的メリットについて

妻に働かずにいてもらう理由というのは、以下の記事に書いた通りで、私達夫婦の特徴の一つであると思う。

誤解を招くので毎回補足をするわけだけれど、妻の就業する権利を奪っているのではなく、これは「我慢して嫌な仕事をしないこと」をお願いするものだ。「夫だけ働いて私だけ働かないのは’申し訳ない’」という思考を持ってほしくない。自由になる余裕があるのに、あえて不自由を選ぶのは得策じゃないという考えが根底にある。

この生活の形はとても有効に働いている。どちらかといえば社会不適合者、労働不適合者の私が働くことで、費用対効果を高めることができる。真面目な妻は責任感から組織に搾取されたり、我慢を強いられることが多いため、たとえば、損な役回りを引き受けたり、人の害意を被る可能性が高い。

労働適合性が高い妻のほうが、労働社会への順応は容易だが、それは人生の幸福ソースを、自分を大事にしない他人に費やす割合を増やしてしまう。私は社会生活に不向きだが、それゆえ労働滞在時間が最小値になり、必要な労働以外に割くリソースを最小限にすることができる。それでいて、給料が同じなのだとしたら、集団行動コミットメントの総量が少ない人間が働いた方が良い場合もある。

仕事大好きで仕事が生きがいになるような人が働くことが、必ずしも得策ではないと思う。こだわりがあることや、責任感が強いことで、それがストレスになったり、気持ちに余裕がない状態を作ったりすることもある。

仕事なんて生活のためなんだとヘラヘラしている人間が定時で帰宅して笑顔で帰宅して、その後の夫婦生活を大事にしたほうが良い場合がある。仕事や団体生活なんてクソだと思うような人が外に出て働いた方が、結果的に家庭や夫婦関係にストレスを持ち込まずに済むのではないかと考えている。

以上が、何度か繰り返し書いている私達の基本スタンスで、ここからが本題。妻が家にいること、家にいても家事を強制されない自由時間を持つことで得られる究極のメリットについて。

先日、このアカウントをフォローしてくださっている方の記事で面白いものを妻から教えてもらった。

私はYouTubeチャンネルの運営と家事と会社労働脱却のための勉強をしているので、物理的な時間がなさすぎる。アウトプットばかりしてインプットがまるでできていない状態にある。

こういう状態の私が陥りやすいのが「独りよがり」「内向化」で、生産するだけの活動の中で、自分の殻に閉じこもりがちになる。もともと、人間関係や人付き合いがドライなので、さらに生身の人とのふれあいがなくなってしまう。多様な価値観や動向を吸収できなくなり、結局は色々なことをやっているけれど、自動タスク化したものを量産しているだけになってしまうことがある。

妻も同じように自由時間を生産活動に充てているけれど、生産と消費のバランス、インプットとアウトプットのバランスを設計するのが得意で、作業や勉強の合間に、SNSや読書から情報収集して、私に教えてくれる。出勤して仕事をしていても、スマホの通知が届き、妻が面白い記事のリンクや、次の週末に行ってみたいお店の情報を送ってくれていることに気づくことが日常茶飯事だ。

これは共働きで時間的余裕がない状態ではできない。私は妻と一緒にいることで、一日を24時間以上の長さに拡張できていると思う。なんでも経験を2倍にできていて、それが財産になっていく。

以前、写真や映像製作をライフワークにしている人が「生産活動は会社労働と違って直接自分の財産になる」と言っていた。そういう時間を増やしたいと思いながら物理的限界を感じている私にとって、労働しない家族がいてくれるありがたみは計り知れないのである。

このNoteを通じて得たもの、出会った方々など、財産になっている要素は、すべて妻が通知やリアクションを眺めて、教えてくれることで発見している。ただメモ書きを記事にして画面を閉じているだけの私の作業では、ここまで多くの方々の考えや感情に触れることはできなかった。こういう脱線と分岐が、妻の存在によって、どんどん装飾されていく。

これからも、できる限り、今の分業スタイルを続けていきたいと思う。

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