学校教育とDinks
DINKsになったきっかけはなんだろう。子供が嫌い?じゃあ子供が嫌いなのはなぜだろう?そうじゃなくて、人間が嫌い?人間が嫌いなのはなぜだろう?人間じゃなくて、人間の心理や行動が嫌いなんじゃないのか?じゃあその行動はどんなものだろう。どのような考えが、私にとって忌避するものなのか。そう詰めていくと、学校で経験した無数の人間の言動が、自身を子なし人生に招いているという仮説が浮かぶ。
私は幸運にも執拗ないじめや固定的な疎外を受けたことがない。学校時代は友達もいた。にも関わらず、学生時代の話題は二度と繰り返したくないし、実家に帰って昔の自分の話をされるのが非常に苦痛である。昔悪いことをしたわけでもない、それでも苦痛なのである。昔見たテレビ、のような話題でも、間接的に昔の自分のキャラクターが垣間見える可能性を感じ、嫌な雰囲気になってしまうのだ。
卒業アルバムが実家にある。親を悲しませないように、そして、それを見たいという妻の願望を大きく損ねないように、そっと捨てようと計画している。
社会問題について論じられる時、貧困、労働、福祉、奨学金返済、親子関係などについては、問題提起や研究が多く発見されるのに、学校教育(特に義務教育)についての研究、問題提起が少ないのはなぜだろうと疑問を感じていた。部活リスクや教員の働き方改革などは、名古屋大学の内田教授が研究しているけれど、学校教育、集団行動そのものにメスを入れるような切り口は見つけられない。
フーコーは「監獄の誕生」で、暴力的な支配や処罰ではなく、人間をシステムに基づき服従させる構造について述べている。ここで述べられている監獄は、まさに現代の学校そのものではないかと思うのだ。特に自由を積極的に剝奪しなくても、囚人同士が互いを監視し、密告し、抑制しあう環境を作ることができれば、簡単に人を服従させることができるという悪魔の構造が良く理解できる。
週5、朝8時から15時くらいまで、団体生活、メンバーが変わらない。学校生活はまさに労働のエントランスで、能力や性格の個体差は無視され、違う生物が無理矢理一緒に同じことに取り組む場である。労働訓練としか思えない。指導者である教員の言うことは絶対であり、教員の眼の届かないところでは、腕力や知力で他人を服従させられる子供が次の指導者になる。指導者の存在を仰ぎ、それに追従し、追従しない者を排除することで醸成される一体感。これが学校を悪夢にさせる。無法地帯と化した学校は、死人が出るひどの弱肉強食を合法化し、いじめ・部活・指導などの殺人的行為を「道徳」の名のもとに正当化してしまうのだ。
奉仕の精神、忠誠心、上下関係とそれに倣う秩序を好む文化は、こうした空間をさらに強化してしまう。強い人が権力を行使することは当たり前で、それに従って生きていくのが当然だとか、気持ちがいいとか、そう思う人が、服従する側に割と多い。国民は権力者に従っていればいいんだと豪語する者が経済的・社会的弱者であることもある。自身が強者を崇拝することで、自身がまるで強者であるかのような錯覚や全能感を覚えることができるので、信者ビジネスはやめられないし、終わらない。明らかに搾取されているはずなのに「○○を信じている私は選ばれしもので、それが理解できない奴はバカだ」のような思考ができてしまう。
学校の勉強の好き嫌いが教員の好き嫌いで決まる学生が多いことを、受験産業でアルバイトしていた時に知った。先生の良し悪しを決めて、その勉強を頑張るかどうかが決まるらしい。ちょっと恐ろしい世界だなと思う。先生が尊敬・崇拝に値するから頑張るというのは、動機が他人に依存したものになっていて、非常に危険である。けれども、塾も名物講師を売りにするし、インフルエンサービジネスがこれだけ流行っているのだから、人は人を崇拝することで、力を発揮する生き物なのかもしれない。
先生のいうことを聞く、強いクラスメイトの言うことを聞く、そうすることで平穏な生活を送ることができる、そうじゃない人を迫害することで、服従を否定した人間が市民権を剥奪されることを社会に誇示する。これが学校教育や集団行動が振りかざす正義そのものではないかと思う。公開処刑が教育の切り札として悪用されている。それは刑罰のような可視化されたものではなく、日常会話の片鱗に隠れた小さな支配・服従の関係に表れているのだろう。
子供を持ちたくない理由の一つがこれだ。学校という無法地帯に預けたくない。市民権が確保されていない場所で、自分の家族が服従と崇拝に翻弄される生活をしてほしくないのだ。これは親になっていない人間の親としての仮想エゴなわけだが、自身が学校生活を完全に悪いものだったと総括している以上、ここに埋没する生命を自ら再生産させてしまうことを躊躇してしまうことがある。
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