執筆の苦しみ、以外の話──アウトライナー座談会にかこつけたメモ

千葉雅也さん、山内朋樹さん、読書猿さんとのアウトライナー座談会が公開された。結構たくさんの人に読まれたのではないかと思うので、嬉しかった。

改めて座談会を読み直してみると、現在の自分とは少し考え方や環境が変わっていたり、新たに使うようになったツールがあったりする。あと、ぼくはいくらなんでも辛い苦しい以外のことを言わなすぎではないかとも思った。w

というわけで、以下に補足メモを書いていこうと思う。

いま使っているツール

まずはじめに、とりあえず使ってるツールのレベルで座談会時点からどういう変化をしているか書く。ちなみに、座談会のときは下記のような状態だった。

現在では、まず「パワポ」をつくるつもりで執筆を始めるようにしています。ツールとしては、WorkFlowyのトピックやツイッターのフォーム、iPhoneのメモ、Keynoteのスライドなど、気が向くところにひたすら文字列を打ち込む。「パワポ」がある程度の分量になったら、テキストエディタのmiやScrivenerといった本格的なエディタにコピペして、既存のメモを編集しながら追記していくような形で執筆を進めます。ちなみに、このやり方で書くようになってから、批評文ではありませんが、少し息の長い文章も書けるようになってきました。
第1回「書くこと」はなぜ難しいのか? - 苦しみの執筆論 千葉雅也×山内朋樹×読書猿×瀬下翔太:アウトライナー座談会 | ジセダイ

このときから大枠は変わらないけれども、ツールが絞り込まれてきている点が、いま現在との違いかもしれない。具体的には、次のようになっている。

■アイデア・箇条書き・構造の生成
・iOS公式メモアプリ:スマホとiPadでのあらゆるメモ
・WorkFlowy:PCでの自分自身のためのメモ、レイアウト変更によって重要度が劇的に高まってる
・Google Docs:PCでの共同するプロジェクト関連のメモ
・身内SNS:仲間内のチャットとか掲示板とかをメモ代わりに

■文章の執筆
・mi:ほぼこれ
・note:noteにアップする場合はmiを経由せず直接書く

■文章の編集・構成
・Scrivener:ほぼこれ、ファイル分割機能が構成に役立つ、案件仕事が増えたので重要度が劇的に高まってる
・mi:最終的にはテキストファイルしか信用していないので最後に必ずここで作業する

※各工程で特に重要なものを太字にした

これらのツールのなかで、以前より圧倒的に重要性が増しているのがWorkFlowyだ。最近ボードビューが導入されて完全に最高になった。ぶっちゃけ、編集を含めてほぼ全部の工程でこれを使いたいくらい。

ボードビューというのは、要するにカラムが何列も並ぶような見栄え。行長が必然的に短くなるから、どんどん行送りされて文章を生成している気がしてくる。めっちゃ好き。実はいままでも自分でCSSをいじって、無理矢理こういう感じの見た目にして使っていた。ただ、自分の書き方だとどうしても挙動が怪しい部分があり、それがWorkFlowyへの忠誠心を下げていた。

このビューの良い点はほかにもある。タスク管理や業務メモという意味では疑似カンバン方式的な一覧性があるから見落としづらいし、また、事務的なメモといわゆる原稿仕事のために必要なアイデアとを区別なく並べることができる点も良い。

ただ、それでもWorkFlowy以外のツールをいろいろ使わざるをえない状況がある。その原因は、自分が誰かと一緒に進める仕事ばかりやっているからだ。考えてることをなるべく相手と共有したほうがいい案件が多く、そうすると相手が使っているGoogle DocsやらSlackやらにアイデアを書き込む機会が増える。そういうわけで、WorkFlowyが常に最新の外部アイデア記憶装置というわけにはいかない。

ほかのツールにメモされたアイデアを、WorkFlowyに漏れなく流し込むような業務フローが目下の課題になっている(ちなみに、一般的な意味での執筆と編集については、座談会時にも話したmiとScrivenerで完全にフィックスしつつあり、新しいトピックはなさそう)。

協働と文章

先に書いた、「誰かと一緒に進める仕事」について。地域の現場で働いてる人や企業のなかの人に文章を書いてもらって編集する。プロジェクトを立ち上げるうえで誰が筆頭筆者ということもなくチームみんなで企画書をつくる。そういう協働的な仕事が増えてきている。

これらの場合、初稿があってゲラがあって云々というような、いわゆる出版っぽいプロセスやメタファーがあんまり用いられない(使えない)ことが多い。たとえば、原稿のバージョン管理がままならない、意思決定者がオッケーならオッケーという力学で進む、ライターでも編集者でも意思決定者でもない謎のステークホルダーがいて陰に陽に原稿に影響を与える、ある文章に関する議論は文言・原稿・クリエイティブ・コンテンツなどなどバラバラの言葉で呼ばれてそれらは微妙にニュアンスを共有しながらしかしズレている。こういったことが当たり前にある。

そもそも、文章を書いて編集するという営み全体があまり自律的な単位を構成しておらず、プロジェクトマネジメントみたいな別の営みに従属するものとして組み込まれていることが多い。それにとどまらず、それでも人は謎のこだわりでもって文章に取り組もうとする(こともある)

アウトライナー座談会のおもしろいところは、締切やらツールの話がたくさん出てきて、執筆を構成し制約する技術的社会的条件の探究にやたらと時間が使われていることにあると思っている。そういう条件のひとつとして、自分の仕事の話をもう少ししてもよかったなと思う。

KJ法

次に、参照しておくべきだと思いつつ、迷って落としたものについて。

まずはじめに、川喜田二郎『発想法』。彼がこの本で展開したKJ法は、アウトライナーを用いた執筆について考えるうえで、重要な参照先になると思う。KJ法というと、付箋になんか書いてガチャガチャやるやつくらいの認識しかない人もいるかもしれないが、彼の本をちゃんと読むと、おもしろいことがいろいろ書いてある。

たとえば川喜多は、KJ法の目的は「発想をうながす」ことだとはっきり定義しているのだけれど、それを阻害するものとして「大分けから小分けに進むこと」があるという話をしている。机に並べられた紙切れをグルーピングする際には、必ず一対一で比較しなければならず(小分け)、いくつかの紙切れをまとめて処理(大分け)しようとしてはならないらしい。むしろ、一対一の比較を何度も何度も繰り返した結果として、最終的に各紙切れの一対一の関係と、目線を引いたときの全体像とが調和することが望ましいとしている。

この背景にある考え方はシンプルで、要するに、先に大分けしようとすると、頭の中に前からあったカテゴリをそのまま当てはめることになって「発想をうながす」という目的にそぐわなくなるということだ。一対一対応を繰り返しながら、新しいカテゴリを創出するのが発想という営みなのだ、それがKJ法なのだ、という主張は、自分にとってずっと色褪せない魅力を放っている。

アウトライナーに話を戻せば、川喜多の議論は、自分が画面上にある箇条書きをガチャガチャいじっているとき、なにをしようとしているか整理することに役立つ。アウトライナーは、自分が書いた箇条書きひとつひとつの関係を吟味してアイデアを生むKJ法的側面と、それらをばくっと既存のカテゴリやスキーマで捉えてトップダウンにまとめあげることと、どちらにも使える。しかし、両方に使える反面、同じ画面上だということもあって、途中で自分がどっちの工程に取り組んでいるのかわからなくなってしまう(少なくともぼくはそう)。このとき、川喜多の区別を思い出すことが有益だと思う。

ちなみに、『発想法』を読むと、この「大分け」には男性中心主義が隠されてるとか、全体主義なんだとか、逆に自分のやり方は民主主義的でいいんだとか、いろいろなことを言っている。この本が1967年に書かれていること、そのあと学生運動を受けて川喜多が始めた「移動大学」の実践などを思うと、感慨深いものがある。

新京都学派

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