【巨人の肩の上から #10】-「その<彼方>への隘路」
2022年2月25日、日本各地の国公立大学で、入学試験の2次試験が実施された。以前noteにて「大学入試現代文のすゝめ」という題の文章を投稿したこともあり、私も各大学が今年はどのような文章を国語の試験にて出題するのか気になっていた。
しかし、受験生や一部の関係者を除けば、国公立大学の入学試験に対する社会の関心は例年よりもはるかに薄かっただろう。この日、各新聞社の朝刊は一つの歴史的事件の関連記事で埋め尽くされていた。先の2月24日、ロシアによる隣国ウクライナへの軍事侵攻の開始が発表され、国際社会に再び「戦争」の重い足音が聞こえてきたのである。
人生をかけた大事な試験の前日にこのような社会を揺るがす衝撃的な事件が起こり、動揺してしまった受験生も多かったのではないだろうか。そしてこの偶然によって、各大学の令和4年度の入試現代文には「ロシアによるウクライナ侵攻の翌日に出題された文章」というある種の「文脈」が付されることとなった。勿論、出題文が選定され入試問題が作成されたのは試験日のずっと前なので、問題作成の段階では作問者には知る由もなかった、試験の前日におこることとなる歴史的事件と当の試験問題を結びつけて、何か意味があると論じるのは極めてアンフェアではある。しかしそれでも、2022年2月25日という時間がもつ文脈を題材にして、どこかの大学の入試現代文を見つめてみるという戯れを楽しむことぐらいは、許されても良いだろうか。
令和4年度東京大学入試現代文
令和4年度の東京大学の入試問題は、鵜飼哲『ナショナリズム、その<彼方>への隘路』(2009)という文章からの出題だった。
ひとつのnation、すなわち国家に同じく生まれた人々が自然に感じ、存在すると信じるある種の平等性。それは実際は、「よそ者」「外人」「非国民」といったラベルを貼られるような、「生まれが違う」人たちに対する排他性によって作り出されているものに過ぎない。「ナショナリズム」が信じる「生まれ」の同一性はなんら自然なものではない。分断が進んだ社会において、ナショナリズムは再び、分断を煽り、外から来た「よそ者」やうちに潜む「非国民」を排除し攻撃するよう人々に呼びかける残忍なアジテーションとしてその顔を表に出しつつある。
そういったナショナリズムの危険性を、筆者自身の体験にも基づいて論じた一節が、今年東京大学が全ての受験生に読ませる論説として選択した文章であった。奇しくも、この文章を2022年2月25日に出題するということには、何か偶然以上の意味があると思わずにはいられない。ロシアのウクライナ侵攻によって、こうした「ナショナリズムの危険性」は社会にはっきりと顕在化し、肌に直接突き立てられたナイフのように人々に生々しく実感されるものとなったからだ。
一昨年の小坂井敏晶『神の亡霊』からの出題、昨年の松嶋健『ケアと共同性——個人主義を越えて』からの出題と続き、東京大学の現代文からは、現実の「近代社会」が孕む歪みとその自覚という批判的なテーマへの傾倒が見て取れる。不平等や差別の存続と再生産、社会的弱者を誰がどう保護するか、戦争や外国人排除……。社会が直面している残酷で底の見えない問題や矛盾について積極的に考えるために、高校3年生は十分な年齢であるということなのだろう。「答えのある問い」に解答するだけでよいはずの大学入試というフィールドで、あえてこうした「答えのない問い」を受験生に投げかける東京大学の姿勢には、やはり貫禄を感じざるを得ない。明らかに、ここ数年の東京大学の現代文からは、受験生の読解力をはかるための単なる入試問題という枠を超えた大学としてのメッセージが見て取れる。
(※このことについて批判をすることも勿論可能である。客観的に見て、出題される文章のチョイスは明白に「左傾化」している。入試問題が例年に比べ「難化」した「易化」したと語ることはよくあるが、「左傾化」「右傾化」などという尺度ではかられるような大学入試問題を、国公立大学が作成することをどう評価するべきだろうか?)
21世紀の社会とナショナリズムという<隘路>
私は以前、「多様性を考える」というイベントに参加した際の他記事にて、社会を構成する人々が他の共同体との間に境界線を引き、誰かを排除すること、「私たち」と「それ以外」を隔てることの問題性について考えたことがある。鵜飼哲の論考も、背後にあるテーマとしてはこれに近い。「多様性」が色鮮やかに強調され、先進性の代名詞として押し出されるこの2022年において、2009年に書かれたかの文章が重要なメッセージを持つと考えられること自体、逆説的である。「多様性」を標榜するこの時代に、「同一性」の幻想に取り憑かれたナショナリズムが、残酷だが間違いなくそこにある社会の空気として牙を剥いている。この気持ちの悪さの正体はなんなのだろうか?
入試の出題範囲ではないが、『ナショナリズム、その<彼方>への隘路』の後半部分を読んでみてハッとした。「日本の書店に並ぶ北朝鮮・韓国・中国攻撃の本の数々。ネット上に溢れる外国(人)に投げつけられた口汚い憎悪表現の汚水流」。鵜飼が危険視した、現代の「下劣な」ナショナリズムはちっともなくなっていない。それどころか、それが書かれた2009年と比べて一層顕在化しているとさえ言えるのではないだろうか。
入試から約2ヶ月後、東京大学の入学式で映画作家の河瀨直美が行った祝辞がインターネット上で炎上し、ちょっとしたニュースになった。「『ロシア』という国を悪者にすることは簡単である。けれども…」。この短い一節が中心となって攻撃の的となり、河瀨氏に祝辞を依頼した東京大学という組織自体の政治的立場に疑念を示すような批判も見受けられた。
たしかに、ある程度は当を得ていると思われる批判も多くみられた。河瀨氏の祝辞の該当部分を「政治的」なメッセージとしてみれば、その内容はかなり理想主義的で、曖昧なものである。誠実なリアリストにとっては、多少は眉をひそめるような中身であったことは理解ができる。
だが、当時彼女の祝辞に対して寄せられていた「批判」の多くは、私の目にはもっとずっと不当な、そして「ナショナリズム」的な言論の堕落を体現したものであったように見えた。まるで、ウクライナに味方しないような内容を少しでも口にしたり、ロシアという絶対的な「悪」を叩かなかったりした言説は、不適切で「よそ者」的であるとでも言うかのような、一元的な立場からの「批判」にも満たない「攻撃」が、インターネット上に掃いて捨てるほど流されていた。
ウクライナへのロシアの軍事侵攻は2022年における最大の出来事の一つとなった。それはまた、社会の分断、言論への寛容さの喪失、「多様性」の看板の後ろに潜んでいた凶暴で残忍なナショナリズムの奔流が、「内」に対しても牙を剥き始めたということ、これらを実感させるような一幕でもあった。そういう「時代の空気」を目に見えるものとして表面化させたという点では、これは「外国の問題」や「国際社会における一大事件」などではなく、私たちの生きる社会の未来にとって、直接的にかかわる話である。
「日本人」であるための条件——それを満たさなければ「非国民」として枠の外へと切除されるような必要条件——など、言論の世界には存在しない。これは私たちが「日本人」として自由に生きるためには、絶対に認めなければならない原則である。SNSをはじめ、インターネットの拡大は、自由で開かれた言論の世界の到来に大きく貢献するかのように思われた。実際はそうだったのだろうか?私たちには、この21世紀を人類がナショナリズムという狭隘な路へと迷い込んだ終焉の時代へと変えないよう努力し続ける義務がある。たかだか数十分で解かれるために作られた入試問題でありながら、受験生のみならず、現代社会を生きる全ての人々に、重大なテーマを問いかけるような重みが今年の東京大学の国語にはあったと、私には感じられる。
2022/08/17
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本投稿はあらB.fm Ep.71に出演させていただいた際にお話し(2:47:20ごろ〜)した内容のフォローアップとしての記述も兼ねた内容になっています。こちらも是非聴いていただけると幸いです。
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