見出し画像

【巨人の肩の上から#7】 -道徳的な「消費」とは?

すべての現代的な地域社会で生活している大部分の人間が、肉体的な快適さを保つために必要な量以上の支出を行う原因の大半は、高価さの点で人目を引きつけようとする意識的な努力というよりも、消費する財の量と質という点で、慣例的な礼節の基準に従って生活しようという欲求である。この欲求は、そこまでは絶対に実現すべきであるとか、それを越えればそれ以上をめざす誘因がない、という厳密な不変の基準によって導かれるわけではない。その水準は柔軟性に富んでいる。金銭的な能力を増大させる習慣を身につけ、結果的に生じる新しい大規模な支出の才を修得する時間さえ与えられれば、それは無限に拡大しうる。いったん受容された支出の水準を引き下げることは、富の取得に応じて従来の水準を引き上げるよりも、はるかに困難なことである。習慣的に消費されてきた品目を分析すれば、多くのものは純粋に無駄なものであり、たんに名誉を与えるだけのものであることが判明する。だが、いったんそのような品目が世間体を満たす消費基準のなかに組みこまれ、こうして人間の生活方式のなかで不可欠な要素になると、このような消費の放棄は、人間の肉体的な快適さに直接寄与するだけでなく、生命と健康にとって欠かせない多くの品目を放棄することと同じほど、まったく困難なことになる。すなわち、精神的な幸福をもたらす顕示的で浪費的な名誉あふれる支出は、肉体的な健康やその維持という「低級な」必要をみたす大部分の支出にも増して、はるかに不可欠なものになりうるというわけである。「高い」生活水準を引き下げるということは、すでに相対的に低い生活水準をさらに低下させるのとまったく同様に、至難の業であることはよく知られた事実である。もっとも、前者の困難は道徳的なものであるが、後者のそれは、生活における身体的な快適さの物理的削減になりうる。

ソースティン・ヴェブレン『有閑階級の理論』(高哲男 訳)p.106-107
*強調は引用者

『有閑階級の理論』(1899)

ヴェブレンの『有閑階級の理論』(原題"The Theory of the Leisure Class: An Economic Study of Institutions")は、当時まだ誕生したばかりだった大量消費的産業社会における人間の精神と行動について、皮肉にあふれていながらも卓越した見識をもたらした名著として、現代でも経済学の枠を超えて多くの人々に読まれている。経済学の論説の中ではかなり異端ともいえる、「制度」に着目するヴェブレンの思想(現代では「制度学派」と呼ばれ、ヴェブレンはその創始者のひとりとされている)の金字塔ともいえるこの書が解体しようとした「制度」こそが、題にもある「有閑階級」すなわち "Leisure Class"であった。

ソースティン・ヴェブレン[1857〜1929]

本書がメスを入れようとする「有閑階級」とは、ヴェブレンが生きた19世紀末〜20世紀初頭の、当時産声を上げつつあったアメリカ式の産業社会における、言うなれば「最」上層階級の人々のことである。単なる社会・経済的な「上層」との違いは、現代の感覚で言う「上層階級」はいわゆる高給取りのような人々をイメージさせる言葉であるのに対し、「有閑階級」は(少なくとも定義上は)全く勤労を行わず、すでに所有している資産とそこから生み出される金利のみで生活ができることから、その生活時間を娯楽や社交、そしてヴェブレンが皮肉たっぷりに「顕示的消費 Conspicuous Consumption」と呼んだ”見せびらかし”のための消費活動に使っている人々を指すということである。彼らは生活のための労働と生活のための消費という産業社会の必然から切り離されており、「名誉」のもとで生産的な職業につくことを免除されている。
典型的な有閑階級は西洋社会におけるいわゆる聖職者階級や貴族階級のことであるが、日本は歴史的には教会制度とは無縁であったし、貴族制もあまりピンとこないため、本来有閑階級とは私たち日本人にとってはイメージがしにくい存在である。それでもヴェブレンのこの本が、世界的に見ても日本人に非常に人気があるということには、すこしタネがあると思って良いだろう。


ヴェブレンの(ある意味)経済学者らしからぬところは、この有閑階級という「制度」を論じる上での出発点として、その歴史起源を産業社会以前の「野蛮社会」に求めることから文章を始めたことにある。彼は淡々と述べる。有閑階級の直接の起源は封建社会時代の聖職者や貴族であるが、彼らの顕示的な消費や閑暇の過ごし方といった慣行自体は、その起源をそれよりもさらに以前の「原始的な」野蛮時代にも見ることができる。すなわち、狩猟採取時代の人類共同体において、農業や家政などの勤労は女性の仕事であり、男性にはそれとは明らかに異なる「閑暇」の時間の過ごし方が与えられていた。それが交戦、学術、聖職、そして狩猟といった、「労働」ではない特別な職務エンプロイメントである。彼らが「労働」を行わなくても良いことの説明は、物質的な証拠の提示としてなされる。例えば狩猟や交戦の場合、その猛々しい「英雄的行為」の成果は、獲物やトロフィー、敵を殺して手に入れた略奪品といった物質的な証拠として共同体の成員に誇示される。逆に言えば、それらの証拠が、彼ら猟師/戦士という社会階層が、生産的な活動を免除されていて良いということの説明となるのである。
閑暇レジャー」、すなわち非生産的な時間の消費は、生産的な仕事はするに値しない(=自分達のすることではない)という有閑階級の意識だけでは正当化されない。彼らの時間の過ごし方は、自分達は何もしなくとも生活することが可能であるということを大衆に印象づける証拠の数々——すなわち「顕示的消費」——によって正当化される。狩りの獲物や戦争での略奪品によって名声を得て、自分の力を正当化するということがもはやできなくなった有閑階級たちは、礼節、品位、身だしなみの煌びやかさといった新たな道具を使って自らの富を人々に誇示することで、自らが労働を回避しうる社会的地位の持ち主であることを証明する。自分は労働を必要としないほどに富を蓄積している。その事実を周囲に見せつければ、名声を博し、現在の生活様式を続けることが認められる。有閑階級がおこなう顕示的消費とは、「より多くの賞賛をえるために蓄積された富を顕示する努力」なのだ。
そうした有閑階級の姿を見せつけられることで、一般の労働階級すらも、自らの財力を誇示することが規範的な正しさ、ないし品格であると思い込んでしまう。労働者階級たちは"上"に君臨する有閑階級に「近似した」生活を送ろうとし、周囲のほかの労働者階級たちに対してどれほど富を誇示できるかを互いに競う「金銭的競争」ゲームがはじまる。これがヴェブレンが描いた、彼の時代の中流階級の姿だった。彼らは周囲と「張り合う」ために、生活のためには不必要と思われるような高価なものを消費したり(「代行的消費」)、自分が労働している間に妻に(家事や社交的娯楽といった周囲に見せつけるような形で)余暇を楽しませたりする(「代行的閑暇」)ことが習慣になる。 
【余談】こうした点で、産業社会において妻は夫の財力を誇示するための所有物に過ぎないといって良い地位に甘んじている。時折言われる「新しい女性」とは、このような夫の「代行」で余暇を過ごすことを強いられた妻、夫の地位を顕示するための動産という像から、女性を解放する運動とも捉えることができる【余談終わり】

こうして、有閑階級による富の誇示が、産業社会の快楽主義的な思考習慣、無限に増大する消費欲を生み出すことになる。


冷徹な皮肉屋ヴェブレンは、有閑階級が豪華な衣服を身につけ、毎日のように煌びやかな社交パーティーを繰り広げ、使用人を雇った豪華な家を”見せびらかす”のは、「未開文明の野蛮人」が狩猟によって仕留めた獲物を見せつけることで自らの特権的地位を正当化し、保護しようとするのと社会的には何ら変わらないと示してしまった。このようなヴェブレンの「攻撃」が当時のアメリカ社会に与えた衝撃は想像に難くない。産業社会の目覚めを見ていたアメリカでは、誰もが上の階層への憧れを抱き、輝かしい「浪費」の数々を誇る有閑階級を理想像としていた。大袈裟な言い方をすれば、たった1冊の本が、それはハリボテにすぎないということを告発してしまったのである。



私見

『有閑階級の理論』をめぐる一つの傾向は、こういった理論的な全体像、「社会的な制度」としての有閑階級を分析するというヴェブレン本人が設定した本書の射程から切り離された文脈で、その内容が多く言及されるという点にある。先述の通り「有閑階級」という社会的概念にほとんど馴染みがない(どころか、4,50年前まで「一億総中流」などという言葉で自分達を表現しようとしていた!)日本人にとって、ずっと重要に写るのは、有閑階級を制度として分析するという本書の目的ではなく、そのなかで打ち立てられた「顕示的消費」「代行的閑暇」といった用語の方であるようだ。
厳密に言えば、それらの用語立ては本書の中においては、あくまでも有閑階級の行動の規則や習慣の起源を解体するという目的のための手段であって、ヴェブレンはおそらく、これこれこういった消費は顕示的であるとか、顕示的な消費は不必要であり道徳的に穢れた営みであるとか、そういった主張を述べるつもりはなかっただろう。このことは、それなりに注意が必要な話である。「ヴェブレン効果」などといって、「物を購入するという人間の営みの背後には、単に自分が生きるために商品を購入するという目的だけではなく、周囲への見せびらかしのためにわざと高価な商品を購入したいと考える精神的な傾向が存在する」といった内容を説明するためだけに『有閑階級の理論』が言及されているとき、本書の内容はかなり陳腐化されてしまっている。それは「顕示的消費」という言葉を本書から借用しているだけであるし、「顕示的消費」という用語の理解としても厳密には誤っている(どちらかといえば「代行的消費」の方が正しい!)。

なにはともあれ、「有閑階級を分析する」という文脈から切り離された状態でも、ヴェブレンが提唱した「顕示的消費」という皮肉たっぷりの用語が魅力的に見える人が一定数存在するという事実の背後には、やはり私たちが奥底に抱えている「消費」という営みに対する不信感が見え隠れする。これは、過去に私がnoteで書いたような「贅沢」への警戒心にも通じる話かもしれない。完全に私見だが、日本社会はいわゆる西洋社会と比べても、産業社会(ここでは「資本主義」と言い換えても良いだろう)の倫理的な問題点への警戒心が強い共同体である。どちらかと言えば大政府主義的で、格差への敵愾心も強く、経済的効率よりも共同体的な規範や道徳への意識が強い。だからこそ、ヴェブレンに共鳴するシニカルな道徳屋たちはこの世に横行する消費が「見せびらかし」に過ぎないと嗤ってみたくもなるのだろうか。

だが、たとえばブランド品を買ったり、無闇矢鱈に"バエる"商品を渇望したりすることを「見せびらかし」の支出だと一蹴することは正しいのだろうか?節制や倹約を美徳とし、財を貪ることを汚らしいと考える私たちの根底にある精神、「浪費」という言葉にネガティブな響きを与える我々の道徳的規範は何を根拠にしているのだろうか?言い換えれば、私たちは「精神的な幸福をもたらす顕示的で浪費的な名誉あふれる支出」の何を恐れているのだろうか?
引用した部分でヴェブレンが述べているように、もはや「顕示的消費」は産業社会において制度、すなわち私たちが受け入れている思考習慣のひとつとして完全に定着している。仮に完全に浪費的な、見せびらかしのためだけの消費が存在するとしても、そのような消費を放棄することは、生活必需品の購入を放棄すること同様、不可能なのである。


そもそも、私たちのうち一体誰が「完全に浪費的な、見せびらかしのためだけの消費」をしているのだろうか?誰かの消費活動に対してそれは「顕示的だ」と皮肉ってみせても、その人に「私とっては『見せびらかし』以上の意味がある、自分のための買い物だ」と反論されればそれまでである。私たちの消費行動には、確かに顕示的な要素があるのだろう。しかし、それが道徳的に劣っている理由も、それ非難されることの正当性も、それを至極真っ当で必要不可欠な消費という要素と完全に切り離し区別する方法も、存在しない。無論、ヴェブレン本人も、(皮肉にあふれた文体ではあったが)あくまで制度の分析という形で消費の顕示的側面を述べただけであって、その道徳的な善悪など論じていない。
繰り返しになるが、制度としての有閑階級を分析する、という『有閑階級の理論』の文脈から切り離してヴェブレンの「顕示的消費」という言葉を用い、人間の消費活動は「見せびらかしだ」と嘲笑してみせるのはアンフェアで無意味だ。産業社会の制度の発展上、不可欠な人間のあり方として、消費には他人と「張り合う」顕示的な側面がある。これが事実であるということを差し引いても、それと浪費の道徳的な善悪とは別問題である。
したがって私は殊更、この記事でヴェブレンを引いて人間の「顕示的な」消費活動を非難するつもりはないし、自分はそれをしないように気をつけようなどと書き記すつもりもない。ただぼんやりと、私たちの「買い物」のうち顕示的な部分と必要不可欠な部分——経済活動の倫理学的な側面と経済学的な側面——は区別できないのではないかということ、結局私たちは「消費」の何を”道徳的に”恐れているのかということを悩んでみたというだけなのであった。

2022/04/28




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?