【巨人の肩の上から #5】 -「象牙の箸」は恐ろしい
はじまりはただの「箸」
大昔の中国にあった殷という国の最後の王として知られる紂王は、漢文ではなにかと「暴君」の象徴としてイジられがちである。「酒池肉林」という有名な言葉に代表されるように、あまりにも多くの文献で暴君エピソードが(かなりの脚色のもとで)創作されてきたものだから、紂王に関しては実際にはどのような国王で、なぜ殷は彼の時代に滅びてしまったのかという正確な歴史的研究を行うのはかなり難しいらしい。
『韓非子』に登場する紂王のこの「象牙の箸」のエピソードも、もちろん創作であろうが、ここではどちらかというと紂王の横暴さや愚かさよりも、彼に仕えたとされる賢人、箕子の明敏さにスポットライトが当てられている。非人道的で人の心がなく、故に衆望を失って国を滅ぼした悪魔のような王として描かれていることが多い紂王だが、この文章のなかでは、むしろやや人間臭い。最初彼は、木でできたふつうの箸ではなく象牙で作った豪華な箸を家来に作らせる。国王なのだから、それぐらいは許されるだろう、と多くの人は思うのではないだろうか。むしろそれくらいでゴチャゴチャ心配する箕子のほうが一般的な感覚で言うとおかしいような気さえする。
しかし、人間の悪い性質とでも言おうか、欲望はひとつの贅沢で満足するどころか、さらに肥大してしまう。象牙の箸を使うのなら、器も平凡な木の椀ではなく宝玉を使おう。箸と椀を立派にしたら、それに入れる吸い物もうんと高級で美味なものにしよう。良い食器で美味いものを食べるのならば、それに見合うよう絢爛豪華な部屋と服装で食事をしよう…こうして際限のない欲望を追求した結果、紂王は節度を失い、驕奢によって身を滅ぼしてしまった。聡明な箕子は、象牙の箸の時点でこうなることを予見していた(らしい)のである。
たしかに、紂王の「贅沢」は度を越している。末期の紂王は王宮に肉でできた畑をつくったり(※大昔の中国では現在のように畜産は盛んではないから、ほとんど狩猟でしか得ることのできない動物の肉はもちろん超贅沢品である)、酒の池を作ったり、美女を集めて庭に放ったり…と、まさに「酒池肉林」に浸ったとされている。いくら人間が自らの欲望に正直な生き物だと言っても、ほとんどの人は紂王のレベルまで行く前に踏みとどまれるのだろう。
しかし、程度の問題こそあれ、我々だってもしかすると紂王と同じ道を辿りかねない、と思ってしまうこともある。紂王にとっての「象牙の箸」が、我々の生活にだって「小さな贅沢」と言われるような形でごろごろ存在しているかもしれないのだ。こんなことを考えたのは、実は、つい最近の私の体験からである。
私はもともと、自分の身なりにかなり無頓着な部類だった。高校時代は毎日制服で出歩いていたし、大学生になってからも特段服を買ったりコーディネートを考えたりすることに興味がなく、なんとなくユニクロやGUで安くて「ふつう」な服を数着そろえて適当に着回していた。ところが最近、いろいろなことがあって、少しずつ自分の服装にこだわりをもつという意識が芽生えてきて、それにつれて持っている衣服なども増えてきた(まだユニクロやGUで買うことが多いが。それでも、だいぶ値段以外のことも考えて買うようになったと思う)。
さて、ここで私はふといらぬことを考え始めたのである。ちょっと小綺麗な服装を手に入れたら、次は靴もいい感じのものを揃えたい…帽子とかアクセサリーとかも手を出してみようか…せっかくだし髪の毛も染めたり髪型を変えてみたりするか…夏は新しいコーデにチャレンジしてみても…と、ひとつ「オシャレ」をする楽しみを覚えてくると、際限なく消費活動への欲望が湧いてくるのだ!すると、自分が韓非子に出てくる紂王と重なって見えてくる。ふと立ち止まって自問してしまう。「お前は自分の欲望を制限できているのか?」と。
ここまで「考えすぎ」な人は珍しいのかもしれないが、多くの人はこのような「小さな贅沢」から次第に欲望がとめどなくなり、やがて引き返せなくなってしまう、という経験をしたことがあるのではないだろうか。もちろん、寡欲や清貧が美徳だった古代中国と、消費が社会を回してゆく現代資本主義社会の日本では「贅沢」をすることの道徳的な意味は大きく異なるだろう。紂王が現代社会を生きていれば、肉屋や酒屋の太客として経営者に感謝されていたかもしれない。今となっては、自己破産でもしない限り、欲望を消費活動という形で具現化するのはむしろ良いことだ。それはもちろん理解している。それでも、私は時に自分の内に寄せては返す絶え間ない欲求の波が怖くなってしまう。いつかそれが際限をなくし、我が身を滅ぼすまではいかなくとも、私は自分がかつてどういう人間だったのか、どういう生活をしていたのかを忘れてしまうのではないか、と。
人、足るを知らざるを苦しむ
「望蜀」(ぼうしょく)という言葉がある。漢の時代(紂王の殷の時代と比べると結構あとの時代)の中国で、光武帝が言ったとされる「人は足るを知らざるを苦しむ。既に隴を平らげて、復た蜀を望む。一たび兵を発する毎に、頭鬚は為に白し。」(後漢書 岑彭伝)が由来の故事成語で、すこし歴史的な説明が必要な言葉だ。
漢の時代は大きく前漢と後漢にわけられ、前漢と後漢の間に、王莽という人物が政権を乗っ取った短い時代があった。その王莽が建国した新(王朝の名前)から政権を取り返し、後漢を建国(というか漢王朝を再建)したのが光武帝(劉秀)である。光武帝は一度は新によって制圧された中国全土を取り返すために、各地に残っていた新の軍を討たなければならなかった。劉秀は隴という土地を制圧することに成功したという報告を受け、すぐに「そのまま兵を南に進め、隴の南にある蜀も制圧せよ」と指示を出す。そしてそのあとに自嘲気味にこう呟いたのだった。「人間は、満足することができないことに苦しむ。既に隴を平定したのに、また蜀も得ることを望んでいる。軍を派遣するたびに、(心配で)私の頭髪や髭に白髪が増えてゆくよ」と。この故事から派生して、一つの望みが叶っても、それに飽き足らずさらに欲張ってしまうことを「蜀を望む」すなわち「望蜀」と呼ぶようになった。
ともに中国の歴史を代表する賢人として知られる箕子も光武帝も、人間の欲望のとめどなさ、どこまでいっても満足することのできない人の心の荒々しさに恐れを抱いていたということだろうか。ちなみに、三国志で有名な曹操も、天下を統一する際に光武帝の言葉を引用して「既に隴を得ているのに、また蜀を望んでも良いのだろうか」と言ったとされている。
我々もまた、彼らのように「足るを知らざる」自分の心に恐れを抱くというのは自然なことなのだろうか。それとも、大量生産、大量消費が美徳となった現代ではむしろ「足るを知らざる」ほどの贅沢ができることが幸福であるのだから、恐れる必要などないのだろうか。
2022/04/13
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