少年と天使 (短編小説)

少年は虐待されていた。いつも身体はあざだらけだった。それを隠すために夏でも長袖の服を着させられた。少年の名前を武と言う。
身長は同学年の子どもに比べて低く、体重も軽かった。しかし、少年武は大丈夫だった。彼には絶対のヒーローがついていたから。
ヒーローの名前をイエス様と言う。

少年武はいつものように殴られた。夜のことだった。
こころも身体もボロボロで学校にもあまり通えなかった。
小さなアパートの家のなかには、ゴミが散乱している。ノースリーブの安っぽい赤色キャミソールを着た母親は、そのゴミの上に寝そべってスマホをいじって、タバコをふかしている。父親は、常に爆発するタイミングを待ちながら、怒りの導火線を湿らせないように、暴力を心に蓄えている。
そして突然爆発する。少年武の腹が殴られて嘔吐しそうになる。痛い痛い、お母さん助けて。しかし母親はタバコを吹かしてスマホをいじり続けていた。母親のこころもとっくに壊れていた。
母親のノースリーブの赤色キャミソールからはみ出した腕には、たくさんの青あざがあった。武の父親のせいだった。しかし、武がしずかに殴られていてくれれば、自分は殴られないで済んだ。武には悪いけれど犠牲になってもらわなければならなかった。
武のこころも壊れそうだった。
ちくしょうと叫んで父親がパチンコを打ちに出て行った。ほっとした。母親も散歩に行ってくると言って上着をはおって出て行った。アパートの一室には武ひとりだけになった。武はひとり部屋に取り残されるとシクシク泣いた。神様、神様、どうか僕を助けてください。もしも助けてくだされば、僕はなんでも神様の言うことを聴きます。だから助けて。助けて。

・・・

そのときだった。部屋中がパアッと明るくなった。夜だと言うのに、窓から見える空は雲も闇もない輝きになった。そして、武の目の前に、うつくしい天使がやってきた。天使は白い服を着て、半透明の姿をしていた。やわらかいのにあたたかい銀色の光に部屋をつつみこんでいた。
武は痛みも忘れて、わあ、きれいと思った。そして神様が僕を救いにきたのだと思った。膝立ちになって、両手を合わせて祈りながら、天使に向かい合った。
「武くん、きみの声がとどいたよ」天使が言った。天空の音楽のような声だった。白くあたたかく透明の音色。人のこころのやわらかい部分を楽器にしてやさしく奏でるような声音。武はその声を聞くだけで安心だった。
「はい!」武は元気いっぱいに言った。
「つらかったね。たいへんだったね」そう言って天使は、祈っている武をギュッと抱きしめた。武にとっては生まれてはじめての愛の抱擁だった。
「いいかい。よく聞いて」天使がやさしい声で言った。
「武くんがくるしいのは、武くんが悪い子だからじゃないんだよ。みんなが神様を信じるようになるために、今、武くんが苦しんでいるんだ」
「はい!」武は天使のあたたかみを感じて泣きながら返事をした。
「武くんの神様の名前はイエス様だよ。武くんを救ってくれるヒーローなんだ」
「はい!」武はポロポロ涙していた。
「イエス様と呼んでごらん?」
「はい!イエス様!イエス様!」するとその懐かしい天上の父の響きに武は、さらに涙した。武はイエス・キリストの御名を言うだけで(ああ、もう大丈夫なんだ)と思った。
「いいかい?お父さんに殴られたときは、『イエス様、助けてください。』『イエス様、助けてください。』と言うんだ。そうすれば、武くんは、絶対に救われるからね。そしてお父さんとお母さんのことも、できれば許して愛してほしい。…がんばれるかい?」
「はい!」武は、正直、父親と母親が恐怖の対象でしかなかったが、神様の使者である天使の言うことは絶対だから、素直に「はい!」と返事をして、天使の言うことを信じた。
「良い子だ。もう武くんは救われているよ。大丈夫。きみは救われているんだ。いいね?お父さんに殴られても、お母さんに無視されても、きみはイエス様に愛されているんだ。わかったね?」
「はい!」武は祈りながら、天使の光の抱擁に包まれて、涙をいっぱい流していた。そして心と身体は光の聖霊に満たされていた。
(そうか。僕はもう救われたんだ。イエス様が僕の神様なんだ。神様ありがとう。ありがとう。)と思って泣いていた。天使も、いっしょになって泣いていた。やっと、この少年がイエス様の愛に気づいてくれたのだ。
実は、この天使は、武くんの守護をする天使だった。彼の心にいつも寄り添い見守り、そして、身代わりになって、傷だらけになっても、絶対に見捨てない魂の友人だった。武くんが傷つくたびに、武くんの心に光を当てて、その心の悲しみを一緒になって受けながら、武を守り続けてきた。天使も武くんもボロボロだった。
しかし、少年武はやっとイエス様の愛に気付いたのだ。私の言葉を聞いてくれたのだ。天使も神様に感謝した。
二人は短いが永遠の時間を至福のうちに抱擁し合っていた。

・・・

ふと気付くと、天使はいなくなっていた。しかし、武のこころはポカポカして、愛に満ちていた。
ドカンとドアが開いて父親が帰ってきた。
「ちくしょう。てめえのせいで負けちまったじゃねえか。十万もよう!!」と父親が言って、腹いせに武の頭を小突いた。武は天使に言われたとおり『イエス様、助けてください。』と心のなかで祈った。
「なんだ!このガキ!生意気な目をしやがって!」そして武の腹を思いきり殴った。パンと胃が破裂した。吐き気がして、げええっとむせった瞬間に血がたくさん出た。武は痛みで床の上をゴロゴロ転がった。『イエス様!イエス様!僕の神様!僕は救われてます!』と心の中で思ったが、痛みにポロポロ涙が出た。
カッとなって父親を睨みつけたが、天使の言葉を思い出した。『お父さんお母さんを愛します。愛します。』泣きながら、しかし、健気に天使の言葉を守ろうとした。苦しい、憎い、憎い、大人になって殴り返してやりたい!悪魔の想いにかられたが、『僕は救われています!イエス様が神様です!』そう祈って少年武はイエス様に助けを求めた。
イエス様は武のスーパーヒーローだ。彼の殴られたお腹に、痛みの十字架があっても、イエス様がいっしょに背負ってくださる。武はそう感じた。
「うぅぅ。うぅぅ」そう言ってまた血を吐いた。
「汚ねえなあ」と父親が言った。
母親も帰ってきた。武の血で床が血だらけになっているのを見て、母親は仰天した。武にかけよって、「大丈夫?大丈夫?」と言ってゆすった。そして父親に「あんた何したの?」と問い詰めた。
「んだよ!うっせーな。お前も一緒にぶっ殺されたいか?」父親がこぶしを振り上げて母親を脅した。すると母親は恐ろしくなって何も言えなくなって黙ってしまった。本当は救急車を呼ばなければいけないんじゃないかと母親は思ったが、また自分が殴られるのが恐ろしかった。放っておこう。そう思って母親は武を放っておいて、ゴミの上に寝そべってスマホをポチポチいじりはじめた。父親は満足した顔で、にやりとした。
武は母親と父親の一部始終を見ていた。
天使の言うとおりになった!ああ、僕は今ためされているんだ!ここでお母さんとお父さんを、もしも許せたら…しかし、許しがたい怒りがブクブク潰れた腹の底から湧いてくるのを感じた。
そのときふたたび天使の姿が見えた。天使は武のとなりで、おなじように傷だらけになりながら、祈っていた。泣きながら祈っていた。
『僕の神様は、イエス様だ!イエス様だ!お父さんとお母さんを赦して愛するんだ!愛するんだ!神様助けて!助けて!』と泣きじゃくった。
すると武は赦された。天の扉が開いた。心の奥にあった神の国がスーッと開いて、彼の心を光がつつみこんだ。
開け放たれた扉のまえにイエス様が立っていた。光り輝き微笑んでいた。
武は精一杯扉を叩いたのだ。心から神を求めたのだ。やっとその扉が開いたのだ。
武は泣きながらその扉の向こうに招かれていった。母親と父親を心から赦し愛していた。そして、天使が彼に語ったことがすべて本当だったと彼は知った。
天使たちが大群になって光の園から迎えにきた。武の心が光に満たされたことを知って、天は歓喜した。
この絶望のなかで、迫害されてもなお、憎しみを捨てて、愛を選んだ、この小さな生命を、聖なる者たちは、こぞって愛した。
肉体から魂が離れていく。打ち上げ花火の火の玉のように、ピュゥゥゥゥゥと彼の魂は天に昇って消えていった。うつくしい光だった。愛の結晶だった。

後日警察がやってきて、武の死は両親の虐待によるものだと判明した。武の両親は二人とも逮捕された。警察も両親も、武の魂が救われたことを知らなかった。
しかし、天使たちは、武の永遠の歓喜と勝利を見届けたのだった。

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