山葵 (短編小説)

寿司の中に山葵が入っていた。優子は顔を赤くして苦しそうに咳き込んで、たまらず口の中の寿司を手のひらの上に吐き出した。孝之はそれを見てティッシュを数枚取って優子に渡した。優子は、吐き出したものをティッシュに包んでゴミ箱に捨てた、フーフーと息が荒くなっていた。孝之は「大丈夫?」と言いながら彼女の背中をゆっくりさすった。しばらくして落ち着くと
「山葵(ワサビ)抜きって私お店にちゃんと言ったよね?」優子が言った。
「うん。電話でも言ってたし、お店でも店員さんにちゃんと言ってたね」孝之が言った。
「山葵入ってた。食べたらツンときて。涙でる」
「俺のにも入ってる」孝之は自分の方の弁当箱に入っている寿司のネタをシャリから持ち上げて、山葵の有無を確認して言った。シャリの上には緑色の山葵がたんまり乗っていた。
「特上頼んだのに。山葵入ってたら食べれないや。せっかくの結婚記念日なのに…結婚十周年なのに…ついてないね」優子はガッカリしながら寿司の入った弁当箱の蓋を閉じた。「孝之くん、捨てるのもったいないし、代わりに私のお寿司も全部食べてくれる?」
「うーん。代わりになんか作ろっか?チャーハンとか」孝之も弁当箱の蓋を閉じた。
「わざわざいいよ」優子が言った。彼女は少しむつけていた。
「そんなこと言わないでよ。一緒に同じの食べよう。せっかくの結婚記念日だから。俺、優子さんと同じの食いたい」
「私食べなくていいよ」
「そんなこと言わないでさ」そう言って孝之は優子の脇腹をツンツンと突いた。優子は少しクスッと笑った。
「何食べたい?」孝之は、明るい声でそう言うと、テーブルから立ち上がって寿司の弁当箱を持って台所に行き、弁当箱を冷蔵庫に入れた。孝之は冷蔵庫の中身を調べて「卵焼きも作れるし、肉もある」と独り言のように言った。優子が返事をしなかったから孝之はテーブルに戻った。優子は孝之の顔を見た。孝之はニコニコ笑っていた。夜の八時だった。優子も孝之もお腹が空いていた。
「…作ってくれるの?」
「うん。何にする?」
「お寿司食べたいって言ってたやん」
「もう食べたくなくなっちゃった」
「…本当に作ってくれるの?」
「うん。作らせてよ。家事いつもありがとね。俺、最近仕事忙しくて家事あんまできてなかったし。今日は優子さん休んでよ」
「いいの?」
「お任せあれ」孝之はニカッと笑った。
「ありがとう」
「何食べたい?」
「そいじゃチャーハンで。チャーハンのご飯パラパラがいいな」
「わかった。優子さんの好きなカニ玉パラパラチャーハンにしよう。よっしゃ。んじゃ作るね。いっしょにチャーハン喰おう。俺今チャーハンの気分」
「ありがとう」
孝之はサッと立ち上がって台所に行った。寿司の中には山葵が入っていたけれど、優子はとても幸せな気持ちになっていた。チャーハンを食べた後は、デザートに買っていたちょっと高級なプリンを孝之くんと食べる、それも楽しみだった。幸せは、ささやかで細やかな気遣いに支えられていた。

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