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『デススト』感想 ~コミュ障の異常な愛情 または…

…または私は如何にして心配するのを止めて『デススト』をやり込むようになったか~

ってタイトルにしたかったけど、ネット時代にこのタイトルは長い。いやネットとか関係なく長い。

以下、クリアした上での感想です。ネタバレはありません。

『DEATH STRANDING』というゲームをクリアした。

舞台は近未来のアメリカ。環境の大激変で外がとてつもなく危険な世界となり、ほとんどの人が自分の街や家に引きこもるようになった。人々は社会的な繋がりの多くを失い、アメリカは国家の体を保てなくなっている(新型コロナウイルスに伴う一連の騒ぎを見れば、リアリティが持てる話ではないだろうか)。

そのため、危険を顧みず物資を運ぶ配達人が重宝されるようになった。主人公サム・”ポーター”・ブリッジズもその一人。ある事情から彼に、人々を繋ぎ直しアメリカを再建するミッションが下る。

発売前から期待していた、が、不安もあった。

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期待の理由は、「小島秀夫監督作品だから」。この人が以前に創っていた『メタルギア』シリーズが本当に好きで、人生で最もやり込んだゲームシリーズが多分これだ。それなら『デススト』も楽しめるのでは、ということだ。

不安の理由は、トレーラーを見れば分かるが「ひたすらに繋がり押しだから」。端的に言って、僕はコミュ障だ。仲が良い人は少ない。それが悪いことだとは思わないが、何が苦しいって、それを悪いことだと考える世間の風潮が苦しい。『デススト』も世間の側に立って、自分達を疑う必要が無いというマジョリティの驕りと共に、「協力! 絆! 繋がり!」と叫ぶ作品なのか?

人間はなぜここまで大きい社会を築けたのか?

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急に話は変わる。それは「専門性の交換」に長けているから、と聞いたことがある。

仮に、世界にA・B・Cの3人だけが暮らしていたとしよう。3人は当初、それぞれが自分の衣食住を自分で用意することで生きていた。だがある時、気付いた――Aが3人分の衣服を、Bが3人分の食事を、Cが3人分の住居を用意する方が、効率が良いのではないか?

極端な喩え話だが、これが「専門性の交換」だ。僕はこれを「仕事」と解釈している。衣服を作る「仕事」、食事を作る「仕事」、住居を作る「仕事」がここにあり、それを3人で分け合っている――ということだ。

配達人サムは一介のブルーワーカーに過ぎない。

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急に話は戻る。実際、アメリカ再建という大仰な目的とは裏腹に、ゲームプレイのほとんどは「ここからあそこまで荷物を運ぶ」という地味な(敢えて言うが、地味な)作業の繰り返しだ。

荷物を受け取り、地図を見てルートを策定し、時に歩き時にバイクやトラックを使う。高所へ登るために梯子を掛け、ロープで崖を下り、近未来技術で即席の橋を数十秒で建設したりもする。そうして配達物をなるべく傷つけずに目的地を目指す(ここの判断がみんなバラバラになる絶妙なバランスが保たれているので、ゲーム実況に向いているのではないだろうか?)。

そこには、従来のゲームによく見られる「敵を全員倒してクリアする達成感」のようなものはあまりない。むしろ「素朴」や「泥臭い」といった言葉の方が合っている。

「『デススト』の面白さは、ゲームというより仕事のそれに近い」

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という感想を読んだことがあるが、僕もこれは的を得ていると思う。

サムがやっていることは配達という「仕事」だ。そして「仕事」は、「社会」を「社会」たらしめている要素の一つだ。

配達という「仕事」のようなゲームプレイと、アメリカという「社会」を再建するというシナリオ上の目的は、実は密接に繋がっている。

『デススト』の世界には社会が築かれる。

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それはシナリオ上だけではなく、ゲーム的にも言える話だ。

前述の梯子やロープ、橋などは、自分でゲームフィールドに設置すると、他人のゲームフィールドの同じ場所にも同期され設置されるという仕組みがある。同じように、他人のゲームフィールドに設置されたものが、自分のゲームフィールドにも設置される。当然、使うことも可能だ。

これが面白い。ゲームフィールドを動き回ると、そこかしこに色んな物が設置されている。気付けば「こんな高さだったらロープで降りたくなるよね」と同意したり、「ここに橋を架けて渡った人がいるのか、なるほどその発想はなかった、楽になるな」と感心したりしている。そしてこれと同じことは、きっと逆方向にも発生している。つまり僕のロープや橋を見て、他のプレイヤーも同じようなことを感じているはずだ。

それはあたかも、誰かの配達によって生まれたものを、他の誰かが受け取っている――つまり「仕事」で「社会」が築かれる様子を再現しているかのようだ。衣食住の話のように仕事の成果そのものをやり取りしているワケではないが、他人と共にひとつの社会を築き上げる感覚は充分にある。

ここにあるのは「協力! 絆! 繋がり!」ではない。そんな押しつけがましいものではなく、もっと淡白に、「君が社会を拒もうが拒むまいが、君は社会に生かされている」と示し続けている。

「いや、俺は壊れたままだ」

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ゲーム内で(貼り付けたトレーラーでも)サムはそう言い放つ。接触恐怖症(アフェンフォズムフォビア)を抱え、そうでなくとも他人との繋がりを避け、しかし一方で他人が作った服を着、他人が作った装備を身に付け、他人が用意した荷物を他人へ運ぶ彼は、自身の態度と社会が噛み合わないことに気付いている。僕のような人間は、みんな昔からこれに気付いている。

何かが解決したり、腑に落ちたりすることはなく、サムが壊れたままであるように僕はコミュ障のままだ――それは別にいい。納得はせずとも、色々と諦めがついている。

ただ、まるで社会で生きるようにゲームをするというのは、とても不思議で斬新な体験だった。気付けば総プレイ時間は242時間。トロコン達成。久々にやり込んだ実感が持てるゲームだった。

よろしければ、是非お願いします。