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なぜ、書くのか

最近見た映画『ルックバック』の主人公藤野が、相方の京本に問われるシーンがある。
自分はどうだろうか。
なぜ、書くのか。
なんのために書いてきたのか。

多重人格的な様相の中を、生きてきた。
本来の自分が、両親により存在を禁じられたからだ。
そのときそのときで都合のいい役割性格を引っ張り出し、演じていた。

…演じる。
嘘をついているようで、聞こえが悪いかもしれない。
居心地の悪さは、常にあった。
ほかにやりようがあったのだろうか。
…わからない。

現在の自分は、こうした心底のつぶやきをそのまま文字にすることにハマっているようだ。
淡々とした愉しさを感じている。
ストレスがない。
ずっと感じ続けていたことを書くだけで、いい。
他人にどう思われるか、気にかける必要がない。
いつも気にしていた。
周囲に気に入られるよう、ふるまおうとしていた。

自分に都合が悪いことを言ったりしたからといって、いきなり鉄拳制裁を喰らわそうとする人間はまずいない。
いたら、警察のお世話になっているだろう。
自分の両親が権勢を誇り続けていたのは、家庭という名の密室にいたからだ。
そのことには、もっと以前から気づいていた。

自分自身のふりをした、鋳型があった。
なぜなら私は自分自身というものがグニャグニャで、自己紹介のひとつもできない人間だったからである。
好きなもの!
そんなもの、あるだろうか。

好きな本を焼かれ、読みあげて揶揄された。
何かを好きでいる機会を、無限に奪われてきた。
過去に好きだった食べ物は、作った翌日の冷めたエンドウの味噌汁と湯豆腐である。
叱られそうで、みんなの目から隠れてこっそり食べていた。

今では、好きな食べ物はたくさんある。
大好きな店の、美味すぎる料理のすべて。
好きに本を読んだし、音楽も聴いた。
ものを書いた。
呪いの日記をベッドの下に隠して眠った夜は、完全に過去のものである。

…もう、いいんだよ。
メランコリー全開で、自分に語りかけるのもいいだろう。
しかし、体に染みついた習性が、すぐに消せるわけもない。
長い時間をかけて、少しずつ解凍して生きてきた。
凍った時間を、今なお。
心臓の奥に抱いている。
それは尖った核となり、壁を穿つために使われる。
だから、ナイフを研いできた。
涙の池に突っ伏し、頬をべしょべしょにしながら。
….今、生きている。
死にたくなかったからだ。

今置かれたこの環境が、すべてではない。
自分が狭い世界に閉じ込められていることを、幼いなりに知っていた。
私には、本という味方があった。
牢獄のようなこの状態も、いつかは終わるに違いない。
そう思えた。

私の両親は、目の前のことしか見ていないように見えた。
彼らは文字が読めないのかと思うぐらい、本を忌避していた。
今置かれた立場と環境から、逃れる方策を知らないように見えた。
だから、社会生活の最小単位である核家族の中で、ストレスを発散する策を選んだ。
それが、我が子や飼い犬を虐待することだったのだろう。
外部から未知の見識を持ち込んで口答えする子供は目障りであり、恐怖でもあったのだろう。
(んなアホな。せっかく義務教育を受けたんだから、文字ぐらい読んで生かせばよかったのに。という感想を傍に置く)。

私にとって、本は「知」という名の光である。
最低のときでも死なずにいられた、たったひとつの魔法だ。
だから、本を書きたいのだろう。
誰かの光になれるかどうかは、自分の決められることではないけれど。


わたくしといふ現象は
精神を抹殺されながら
本を灯りに戻つてきた
か細い有機交流電燈の
ひとつの青白い照明です

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