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◇特集【長寿企業に学ぶ】インタビュー2.株式会社 ういろう

小田原駅からバスに乗ること5分、国道沿いに悠然とたたずむ城が現れる。近づいてよく見ると、平仮名で「ういろう」の文字があり、城ではなく店舗だと気付く。
和菓子と薬を売る会社で、日本で650年、二十五代という長い歴史を積み重ねている。老舗の看板を守りつないでいる当主に、生き残りの秘訣を伺った。

共存を前提とした競争なら 助け合える

― 外郎家の歴史を教えてください。
 外郎 およそ650年前、中国の元王朝が滅んだときに、役人であった陳延祐が日本の博多に来て帰化したのが、外郎家の始まりです。その後室町幕府に招かれて、優れた医術の知識、特に大陸由来の家伝薬が朝廷に重宝されました。これが薬の「ういろう」の起源です。

 また、薬の品揃えの一つであった黒砂糖を転用し、国賓のもてなし用に作ったものが、お菓子の「ういろう」です。どちらも外郎家のものとして、家名を愛称で呼んで頂けるようになりました。

 医術の面で活躍する他、中国と交易するための外交官の役、文化人としての知識の高さを発揮して、京都で歴史を重ねました。およそ100年後の応仁の乱(1467年~1477年)により京都が荒廃した折に、伊勢新九郎盛時、のちの北条早雲の「小田原で新しい国造りを」という思想に呼応する形で、五代目の藤右衛門定治が、薬の製法と共に小田原に移住しました。

 北条五代の約100年間は、外交力と知識を兼ね備えた重臣として北条家を支える一方、医薬師として領民の健康に寄与しました。

 豊臣秀吉による小田原攻めで開城した後は、武士の身分を捨て、医薬、商人として街づくりに尽力し現在に至ります。

― どういうときに存続の危機がありましたか?
 外郎 戦争や政変のときです。応仁の乱での治安悪化や北条氏が追放されたとき以外にも、明治維新後は、家伝薬へ高い税金が課せられました。また、太平洋戦争の際は、軍需産業拡大のために、各都道府県に医薬製造業は一社にするという企業統制令が出て、とり潰しの危機にさらされました。

― どのようにして、困難を乗り越えたのでしょうか?
 外郎 歴代の当主がその時々に尽力しましたが、外郎家だけでは生き残れなかったと思います。地域の人達が助けてくれたと考えています。具体的な記録は残っていませんが、この薬を絶やしてはならないと思った地域の人々が、時の政権に働きかけてくれたのでしょう。

 例えば、小田原から秀吉によって追放されてもおかしくなかったのですが、医薬を通じた地域との信頼関係が、民衆の声となり、地域の治安と健康維持のために残されたのだと思います。企業統制令からの除外も神奈川県知事が国に働きかけたものですが、知事を動かしたのは地元の声だったのです。

 今は当たり前のように多くの企業が地域貢献をしていますが、日本の老舗が残ってきた理由の一つは、やはり地域と共に歴史を歩んできたことが大きな要素だと思います。競争して勝ち残るというのが、今の資本主義社会の考え方で、大企業へ成長しているのも事実だし、成功されている方々には敬意を表します。

 一方で、我々のような老舗がこれからも生き残る秘訣というのは、「競争」ではなく、地域との「共存」だと社員には伝えています。利益は必要ですが、過度な競争をすれば負ける側もあり、限られた市場での競争ですから勝ち続けることも難しい。

 負けた時に、共存を前提としている競争であれば、お互いに助け合えると思います。ただ単に利益追求主義でやりすぎると、同業者や顧客から見放されてしまうこともあるでしょう。

お菓子のういろう のコピー

身の丈経営に徹する

― インターネット販売や百貨店での代理販売などをしていないのはなぜでしょうか?
 外郎 和菓子も家伝薬もすべて自社製造です。大量生産して販路の拡大をするより、手間と時間をかけ丁寧に作ったものを、お客様とのコミュニケーションを通して直接渡したいのです。商売の基本は、お金ではなく信頼です。お客様との信頼関係があって初めて、我々の商売が成り立つと思います。

 薬のういろうは、利用される方の健康状態を確認する必要があります。お菓子のういろうは国賓や来客のもてなしの菓子として創作したものなので、先祖の想いを大切にすべく、来店のお客様に手渡ししたいのです。食べ方のコツなどを話したり、観光地としての案内をして、お買い物を楽しんでもらいたい。接客や会話を通じた信頼関係ができると、お客様はまた足を運んでくれます。

 コロナ禍で来店のお客様は減っていますが、笑顔を特に心掛けています。お店に来てほっとして頂ければと願っています。

 私は「明治時代の商いで良い」と言います。当時インターネットはないし、移動手段もそれほど速くない。情報伝達手段も限られていましたけれど、口コミを聞いて、地域の方や小田原を訪れる方が買い求めに来てくれていたわけです。

 たくさんのお客様に来て頂きたいですが、必要以上に売上をあげるのではなく、自分達が生活して行くために必要なだけを、お客様とのやりとりのなかで販売する。目の届く範囲でしっかり商品を作り、丁寧にお渡しすることで、品質と信頼を保ちたい。売り上げを伸ばそうとして、作り手を疲弊させてはならない。大切な社員と一丸となって身の丈経営に徹しています。

薬のういろう(透頂香)と印籠 のコピー

時代を超えた恩返し

― 薬のういろうにはたくさんの効果があるのですね。
 外郎 万能薬ですねとよく言われるのですが、実際に幅広い効能と即効性、万人に大きな害無く薬効を出せることから生き残ったのでしょう。もし効かない薬だったら、存続していませんよね。

 小さな丸薬で口から飲む薬なのですが、昔は武将が刀傷にすりつぶして塗って、止血や化膿防止に使ったという逸話もあります。

― どういった方が買いに来られますか?
 外郎 年配の方が多いですが、何世代にも亘って愛用されているご家族、口コミや知り合いの薦めでという方。また海外旅行中に友人がこの薬を持っていて、高山病や食あたりなどで体調が悪くなったときに、服んで治った経験からという方も少なくありません。

 胃腸系に効能が顕著ですが、自律神経を整えるなどバランスの良い生薬なので、時差ボケとか、車酔いなどにも効果があります。そういう点でいろいろな事例をお客様が教えてくれて、時にはこちらが驚きます。

― 今後小田原の町にどのように関わって行く予定でしょうか?
 外郎 代々外郎家の人間は、医術や知識を活かして、街づくりに寄与して来たことで、地域の人々にも支えられてきました。私の使命も歴代と同様に地域に貢献し、これまでお世話になった地域やお客様に時代を超えた恩返しをすることです。

 小田原は商業都市の一面もありますが、お城を中心とした観光地でもあります。地方経済が低迷する中、これからは観光で街の魅力を高めて、交流人口を増やす必要があるだろうと考えています。観光による街づくりで、私は寄与したいと考えています。

 例えば〝漢方薬局〟兼〝観光薬局〟というコンセプトで、観光のみなさんに老舗のこだわりや、小田原の歴史を知って頂く外郎博物館を作るなど、小田原の街歩き観光を推進するための仕掛けを随所で行なっています。それらが評価されて、この6月に小田原市観光協会の会長も拝命しました。

 今まで観光協会は、週末に大規模な祭を開催して、城下町小田原を告知してきました。これからは常時誘客できる案件に予算配分をシフトして、街中に観光スポットを増やし、お客様が回遊できるようにしたいと思っています。

 地域の繁栄がなければ、老舗も生き残れないというのが持論です。地元経営者と連携して地域の賑わいを創生し、小田原に来たお客様が街中を回遊してもらい、そのうちの一つに「ういろう」というお店を見つけて、立ち寄るという構造になれば、地域と共存共栄できると思います。



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