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【エッセイ】顔と名前が覚えられない

相貌失認というほどではないけれど、人の顔が覚えられない。年よりみたいなことを言うが、外国人の顔はもっと覚えられない。有名な映画俳優の顔と名前もほとんど一致しない。だってあの人たち、いつも違う服とヘアメイクで全然違う人を演じるじゃん。
よく見ればわかることが多いのだが、そもそも映画を見るときに俳優に注目していないというのも大きい。役柄として、登場人物として、しか見ていない。

その誰が誰かよくわかっていない、がうまく働いて面白さが増したと感じている映画がひとつある。実写版アラジンである。
2019年の作品なのでさすがにもうネタバレしても許されるだろう。アニメ版と違い、エンディングで魔法のランプから解放された魔人ジーニーは人間になり、ジャスミン王女の親友である侍女ダリアと恋仲になって2人の子供をもうけて世界中旅をする。
冒頭の名曲「アラビアンナイト」は、父となったジーニーが子供らに自分の故郷について語り聞かせる体になっており、初っ端からネタバレしている状態なのである。

私は、ここがわかっていなかった。さすがにウィル・スミスやぞ分かるやろ、と言われようと、私の認識力では「あれっ、この人誰だっけ・・・・・・ジーニー役の人に見えるけどなんか自信ないな、それに青くないしな」となっているうちに、物語本編へ時は遡る。そしてプロローグに登場したこの謎の家族について私は忘れる。ちょろい。

物語の途中では、人間に化けたジーニーを憎からず思っている侍女ダリアも描かれるのでラストに二人がくっつくとなったときには、やったぜおめでとう!とちゃんと理解している。人の顔が覚えられないからといって人の心までわからないわけではない。

で、冒頭のシーンに戻って、ああ!そういえばそうだったのね!と気づく。演出効果抜群すぎやしないか。

私は、映画より舞台演劇派なのだが、実写版アラジンでのこの感覚は舞台の感動に近かったと思う。興行性が重視されて有名俳優がたくさん出演する映画に比べて、舞台演劇そのものは宝塚などの一部のものを除いて、出演者のスター性は透明化されてこそ本質的な「演劇」である。例えば、劇団四季のように完全にスター性を排除した興行団体がある。彼らが提供しようとしているのは役者のスター性によらない純粋な舞台体験である。

舞台上の制約としての一人二役、バレエで白鳥と黒鳥を同じダンサーが踊ることの意味、死の象徴として主人公ロミオの周りにいたダンサーがクライマックスでロミオに毒薬を売る薬屋として現れるゾクゾク感など――
とまあ、人の顔が覚えられなくても、服装や動きやなんやかんやから、さっき出てきたあの人が今ここで後ろに立っている、程度の認識があれば物語は楽しめるのである。

問題は仕事よ。休日にいつも使う地下鉄で、槙野さん奇遇ですねと声をかけられても会社の別の部署の上司だったか、取引相手だったか一瞬迷う始末。身内じゃなく社外だったとわかっても次はどこ銀行だったか株式会社どこだったか、誰それさんなんてぱっと思い出せるわけもなく、先生だとか社長だとかいう役職呼びが本当にありがたい。あっちは比較的数少ない女性担当者ということで覚えやすかろうが、こっちからしたら初めましての会社さんとの顔合わせで登場するのはオジサンとオジサンとオジサンである。ゲーム「オブラディン号の帰還」初プレイ状態である(知らないオジサンを知ってるオジサンにしていく謎解きゲーム)。

身内なら身内で、役職が昇進したりなんだりで覚えきれておらず、ともかく一度覚えた誰それさん呼びで統一させてもらえるのが一番事故率が低く済むのだが、と思いつつ記憶力よりも相手の名前を呼ばずに済ませる会話力ばかり上がる始末。社員証をポケットに突っ込んで隠している人らを「風紀の乱れ」と断罪して名前が確実に見える状態に固定したい。

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