優雅な悪と露骨な悪
西洋において、キリスト教の人道主義と人権搾取の植民地主義がどうやって両立してきたんだろうか。
最近それが頭の中をぐるぐるしていた疑問だったけど、今日GYAOで「パッション」て映画観てて、なんかそれが腑に落ちた気がした。
植民地主義の悪は女性的で優雅でしたたかな悪なのだと思う。
この映画は広告会社の重役クリスティーンが、アシスタントのイザベルの手柄を横取りしたり、恋人を取ったりして、イザベルに復讐される話。クリスティーンはイザベルに酷いことしてるはずなのに、奇妙に好意的な態度を見せている点が印象的だった。
「イザベル、私はこの会社であなたのことが一番好きなのよ、分かるでしょ?」
イザベルにアイラブユーと言ってキスしたり、レズビアン的でさえあった。
「これを横取りだと思う?でも私はあなたの才能を一番よく分かってる、だからこそそれを世間に分かりやすい形に改良してあげたかったの」
自分から「横取り」て言葉を出して、なおかつ好意を示すことで相手を黙らせてしまうのがすげーな、と。
青い目と真っ赤な口紅のパツキン美女がそれをやってのけるのがいかにもだ。
寄生虫はすぐに宿主を殺してしまったら生きていけない。飼い慣らしながら、長くその血を吸い続ける必要がある。宿主が死んでしまったら用済みだからポイ捨てなのだけど。
ヨーロッパの植民地主義もそれと同じで、キリスト教の教えでアメを与えつつ労働搾取でムチを振るう構造だったのかな、と。
だから優美でエレガントな文化芸術と人権侵害の植民地主義が両立しうる。
すごく二面性がある、女性的で優雅でしたたかな悪とも言える。
寄生虫を擬人化したら、実はとっても愛想が良くにこやかで、親切な良いやつなのかもしれない笑。
私は別に、ヨーロッパの悪口が言いたい訳ではなく、日本のというかファシズムの侵略主義が負ける理由はここにあるのではないかと思うのだ。
露骨な優生主義と人種差別主義は人を不快にさせる。
きっと自然界を人間の色眼鏡で弱肉強食と解釈して、弱い者は淘汰されて当然とする「まっすぐな」価値観から来ているのだろうけど、自然界は強い者ではなく環境に適応したものが生き残る。
それに人類は基本的弱者たる女子供なくして子孫は生き残れない。だからこそ、人間は本能的に弱者への暴力を不快と思う脳回路を持っているのかもしれない。
ファシズムの悪はまっすぐで男性的、露骨な悪だから嫌われるのかもしれない。
もちろんどちらも悪であることに違いはない。植民地主義下で起きた残虐行為も色々ある。
ただ、この国ではいつまでも「鬼畜米英」の精神で、戦時中のまま時が止まっているように見えるのだ。
相手の良い面と悪い面を認識して、初めてその鏡合わせとして自分自身を認識することが出来るのではないだろうか。
私はどちらの悪も越えて、新しい時代の善を構築していくことが大事だと思います。
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