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非モテ論者へフェミニストからの解答

こないだ、元非モテ論者で、自己啓発本的努力の末にモテを獲得して、男性弱者論を批判する、ていうややこしい男の話を読んだんだけど。
著者は元オタクの非モテ男で、女にモテるためにオタク趣味も捨てて、好きでもないオサレなファッション雑誌や自己啓発本を読み漁り、見事彼女をゲットしたという。

ただ、著者は全部偽物で固めて女を騙している自分にも、そんな偽物の「モテ」にまんまと騙される女たちにも、嫌気がさしたという。
その上で、最近非モテ論が進化した形で出てきたという男性弱者論者達は「潔癖過ぎる」という。
要するに、「モテるために自分をカッコよく見せる努力をして相手を騙すのは必要悪なんだから、つべこべ言わずに大人になれ、適応は神だ」ていう主張。

私はこの主張、めちゃくちゃ日本かー的な貧しい話だなぁ、と思って見ていた。
幾重にも糸が絡まってる感じがしてしんどい、一つずつほどいていこう。

まず第一に、そこまで自分を押し殺して適応出来たとしても、それで幸せなのか?

著者は世間的に好ましい(はずの)モテ男を目指して、世間に許容されていない(と自分で思っている)オタク趣味を捨てた。
それで実際に彼女は出来たそうだけど、自分が本当に好きなものを捨てて趣味の合わない彼女を得たところでそれで幸せなのか、と思う。

それに今どき女子でもオタクだという人はすごく多い。
最低限の身だしなみや対人関係マナーが身についてさえいれば、趣味を捨てずに彼女を作ることも出来るんじゃないの?
本質的に好きなもの同士で繋がってるオタクカップルの方が、絆が強いと思うけどなぁ。

第二に、「愛されたい欲求」と「世間に認められたい欲求」を混同していないか?
日本人は今だに「恋人がいないと・結婚していないと健全な人間として認められない」と思っている人が多い。

純粋に「ありのままの自分を分かってくれる人がほしい、愛してくれる人がほしい」という理由で彼女を探すなら幸せになれるかもしれないけど、「彼女がいないと世間に認められないから無理矢理自分を改造して彼女作りました」では、本末転倒じゃないの?

彼女を作ることは幸せになるための手段の一つであって、それ自体がゴールな訳じゃない。だから世の中恋人がいても結婚してても、価値観の不一致等で不幸な人がゴロゴロいるのだ。モテることと愛されることも別物だと思う。

まず世間体と愛されたい欲求を切り離して、「どんな人に愛されたいか?どんな自分を受け入れてほしいか?」を認識した方がいい。

第三に、適応のためなら何でも正当化されるか?
日本には「全体のために自分を犠牲にするのは良いこと」という全体主義的な信念がある。これは一見他者思いな良いことに見えるかもしれないけど、我慢してきた人は他人に我慢を説く人が多い。
「世の中は元々理不尽なもんや、我慢して働け」という昭和な言説なんか正にそうだ。
パワハラ、セクハラ、ブラック企業。明らかにそれらの悪を温存してきた一因になってるよね。
それに、一見ストイックに社会貢献してるように見えて、我慢してしまうことで、次の世代にまで苦しみを継続させる手伝いをしているのだ。
「つべこべ言わずに適応しろ」という著者の主張には、自分の苦しみに気付きさえしないまま他者にも同化しろと説く非常に日本かー的な貧しさを感じた。

いい加減、曖昧模糊とした「世間」ではなく「自分」に尺度を置いて生きた方が幸せではないだろうか。

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