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エンジニアリング組織論への招待 読書メモ 〜前編〜

広木大地 著「エンジニアリング組織論への招待」を読みました。

発売前から気になっていた著書であり、エンジニア組織が成長するに伴って直面する課題へのアプローチが体系的にまとまっているのでは、と期待していました。

最近は、まず一度ざっと読みながら少しでも気になった部分に付箋を貼っていき、その後メモを書く際に言及していくという読書スタイルを試みています。
前回、「落合陽一 日本再興戦略 読後メモ」を書いた時に試してみました。
個人的にはこのスタイルが良かったので、今回も継続して行なってみたいと思います。

付箋の数が多くなってしまったため、前編、中編、後編の 3 部構成ぐらいに分割したいと思います。

さて、本書の冒頭では、まず言葉の定義をし直すところから始まります。
たしかに定義が曖昧なままでは、いかに論理展開を繰り広げていったところで、読者によって着地点が大きくズレてしまいます。

そして、エンジニアリングとは何か、という問いはここに帰着します。

エンジニアリングとは、つまるところ、「実現」していくための科学分野だといえるでしょう。
「曖昧さ」を減らし、「具体性、明確さ」を増やす行為が「エンジニアリングとは何か」という答えでもあるのです。

「具体性、明確さ」を増やす行為のひとつの手段として、プログラミングがあり、我々エンジニアはそれを扱うスキルがある、という話の方向性が、真にエンジニアリングと向き合っていると言えそうです。

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ちなみに少し横にずれてしまうのですが、手段の目的化の話になったら必ずこちらのエントリ「知っていてこだわらない、それがいいソフトウェアエンジニアの条件なんだと僕は思うんだ」を読み返すようにしています。名文なのでまだ読んだことない方は是非どうぞ。

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エンジニアリングで重要なのは「どうしたら効率よく不確実性を減らしていけるのか」という考え方なのです。

勘のいい方なら、上の文章だけでなんとなく言いたいことがわかるのではないでしょうか。

上位に行けばいくほど、抽象的で曖昧な状態で指示していく必要が出てきます。逆に現場に行くほど、指示や行動が具体的になってきます。

いわゆる上流工程から下流工程みたいなフロー図を頭に浮かべてもらうと話が早そうです。
ひとつの企業を俯瞰して見てみると、ある状態を「実現」するための処理装置に過ぎないというお話です。

何かを実現するにあたって、「具体的で細かい指示」が必要な組織と「抽象的で自由度のある指示」で動くことができる組織を考えてみます。

さて、その処理装置の中身についてフォーカスしていくと、マイクロマネジメント型組織なのか自己組織化したチームのどちらが強いのかという話に落とし込まれます。
マイクロマネジメント型のほうがよく機能するケースもありますが、マネージャーの頭脳を超えることができない点、また単一障害点になってしまう点がネックになりそうです。
複雑化した時代においては、自己組織化したチームのほうが往々にしてあらゆる局面に柔軟に対応できると。

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不確実なものに向き合うというのは、「不安」を伴います。「わからない」ということは、それだけで自分自身を脅かす可能性を考えてしまうからです。そのようなものに、人は本能的に「攻撃」か「逃避」を選択してしまいます。

本能に組み込まれているのなら仕方ないです。却って、立ち向かう勇気がでてきます。そうしないと、いつまでたっても不安から逃れることはできません。

もし、ソフトウェアを書くこと以外に不確実性の削減手段があるのであれば、迷わずに提案しましょう。そうすれば、よりよいものを作ることができます。それもまた、エンジニアリングの一部なのです。

昔、誰かが「コードは書いた瞬間から負債になる」と言っていたことを思い出しました。ソフトウェアは、動かす必要がある限り、誰かがメンテナンスし続けないといけないのですから、本当にその通りだと思います。

私はあなたではないという単純なことが、忘れられてしまい、自分の事情はすべて相手に伝わっているのだという勘違いも発生します。

「私はあなたではないし、あなたは私ではない」ので、互いの認知のずれをできるだけゼロにすることがコミュニケーションです。

また、得てしてコミュニケーションは疲れるものです。楽な方に流れていくので、意識的にコミュニケーションをとろうとしない限り、基本的にはずれは大きくなっていく一方です。
互いに歩み寄ることが大事ですが、個人的にはパワーや情報を多く持っているほうがまずは歩み寄る姿勢をもつことが肝要ではないかと考えています。

マネジメントにとって、事実を正しく認知することは、重要な課題です。伝聞情報をあたかも事実であるかのように伝えたり、自身の推論も含めた意見を事実として報告されるというようなことは日常茶飯事です。

ただただ事実をそのまま伝えることは、実際には結構難しいと思っています。
そこに自分の意見は含まれていないか、客観的な立場をとって今一度見直してみることが大事ですね。

「自分や人はいつ非論理的になるのか」を知らない人は、そのような環境に陥ったときに論理的思考力が著しく限定されてしまいます。

認知行動療法をかじると、自分の考え方の癖の存在に気付くことができます。
どのようなときにどのような感情になったかを冷静に振り返ることで、認知の歪みを少しずつ修正していくというものです。

出典:https://tokyo-cbt-center.com/programs/what-is-cbt

ここでいう「非論理的になる」タイミングはもしかしたら、議論中に自分のウィークポイントを突かれたときかもしれませんし、一定の環境下に置かれるとそうなってしまうのかもしれません。人によって様々だと思うので、一度冷静に自分を見つめてみると面白い発見があるかもしれません。

本書では、まさに認知について言及しています。
たとえば、ゼロイチ思考、一般化のしすぎ、べき思考、レッテル貼りなどです。
ここで伝えたいことは、認知の歪みは日常的に起こっており、よほど意識しないと事実を事実として認知することは難しいということだと思います。

なかでも、「怒り」について着目してみると以下のようなことが言えるのは、個人的には発見でした。
自分自身に「怒り」という感情がほぼないと昔から感じており、それは自身が常に安全な場所にいるからなのかと思いました。

「怒り」が発生しているその時は「自分」ないし「自分の大切にしているもの」に被害が及びそうだと感じている、ということです。

いったん前編はここまでです!

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