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小説は休憩して、日記を書く

ひとまず書き始めてみる。昨日までの三日間、漏れなく立ち上がり、仕上げの二部構成であまり小刻みになることなく書き上げた。すると四日目を迎えた今日も、その書き方でないといけないような気がしてくる。今日はバイトがないので彼女の家から家に直帰、ふんだんに時間はあったが千葉雅也さんと「言語の本質コンビ」今井むつみさん、秋田善美さんの鼎談を読んだり、ガビの前十字靭帯負傷の具合を調べたり、鳥羽和久さんの推しとの向き合い方をひとつ綴った記事を読んだり、そうだしいたけ占いも昨日更新されていたな、しかし今週は夕方アップだった、少しゆっくりめだよな、などとうろちょろしていたし、やはり二部構成の呪縛に囚われて「書き始めたからにはしばらく熱量をこめて執筆に向き合わねばならない」と身を固くしてしまい、かろうじてまあ千葉駅に着くまでは書かないでもいいことにいったんしておこう、実家で寝るよりは深く眠れていないだろうし目を閉じておいて、今日は最安ルートできているから千葉駅で京成線から乗り換えるついでに色々と切り替えることにしよう、としてみた。寄ることをすでに決めていた千葉駅のくまざわ書店、改札の外にある大きい方はこういうときでもないとなかなか寄れないので、久々にきた感じがしてワクワクした。なかでも赤い表紙の岩波新書がいくつか選ばれてまとまっている棚に目を奪われた。30人の著者、30冊の本をピックアップしたフェアらしいが、置いてあるのは10冊ほどだった。脇に置いてある小さな紙3枚ほどで出来たパンフレットのような、30冊のタイトルと著者の名前が載っている冊子に目を通してみると、憲法とは何か?というフレーズに目を惹かれる。それとパンフレットを手に取る前には、新しい文学のために、という大江健三郎著の本も気になった。こちらはその場でパラ読みした。欲しいと思って一度はレジに持って行こうとしたが、ちょっと今月はなにかと買いすぎだなと思い、留まった。つい数日前、帰り道の似たような状況、もう少し身体のしんどいタイミングだったが、本を2冊買って、ちょうどいいからそのときかかった2500円を今のところの身の丈にあった1ヶ月の本代ということにしたのだった。しかもポケットティッシュだけは必要であればそのへんで特に深く考えずに買ってもいいことにしたから、若干支出を抑えるほうに気が回ったのだと思う。それでもティッシュがどこでも買えると劇的に気が楽なので、これは続けていきたい。問題はこの細かな支出をどう取り扱うかどうかであって、やるかやらないかという次元はもう抜けている、一応今のところは。しかし新刊とはいえ800円ほどだったので難癖つけて衝動買いしてやってもよかったのだが、本屋を10ほどぶらつきながら悩んだとはいえなぜ潔く身を引けたかというと、ここに秘策があるからである。先月母にもらった、近所のショッピングモールでしか使えない3000円ギフト券。あの丸善でこれを使える確証があるとまでは言わないが、使えない

一旦ここで終わっていた。今は15:06。なんだか今日は小説を書こうとすると手が止まってしまう日みたいだ。というか、手が止まってしまうみたいだ。とりあえず100本書こうと思っていたのだが、少し休憩しよう。例の大江健三郎の本、新しい文学のためにを文面上ではついさっき触れた近所のショッピングモールに探しに行ったが、なかった。そんな。いやしかしせっかくきたんだ、少し色々見て回ろうということで本日二度目の本屋周回をしてきた。大体見るところといえば店舗ごとにやっているフェアはどんな感じかなとか、哲学のエリアはどんな感じかな、まったく知らない千葉さんの本がないかなとか、今日こそフーコーのなんかカッコよくて衝動買いしちゃうような表紙の本と出会えるだろうかとか、浅田彰の構造と力、持っといてもいいんだろうかとか考えながら視線、だけではなく顔ごと一巡させながらときには膝の屈伸も活用して、足元の棚も、たとえば尹雄大さんの本もあったりするわけだから見回すことを心がけながら、たいていなにも買わずにその場を後にして、今日の丸善でいうところの現代文学コーナーでここは坂口さんの本をどのくらい取り扱ってんだろうと一応チェックして、心学校もあるじゃんすげーとか思いつつ今日はそのうち買って手元に置いときたいと思っている土になるとかは買わないでおいて、気がついたら目の前にあった漫画コーナーの近くに、千葉駅のくまざわ書店でも、昨日の神保町の東京堂書店でも目についた君たちはどう生きるかのイラスト集みたいな大判の本、俺がTwitterを見て欲しい!と思ったのってこれだったっけと曖昧ながら値段を見たら4400円税抜で高っと棚に戻し、すぐ下を見るといやこれだ、と絵コンテ集を見つけ、たしかこっちは3000円ちょっとだった気がする、でも相当分厚いし表紙の素材も高級感があるぞ、と疑いながら値段を見たら4400円くらいだった。3000円分のギフト券をもってしても、足が出る分で本を一冊買えてしまう。それもでかい、ハードカバーのやつ。それだと買えないか。1600円くらいか。なんにせよそれも今日はやめといて、ああ明確に欲しい本が決まっているときに赴いた本屋でそれがなかったときの、このわけのわからなくなる感じ、なんでもいいから戦利品がほしくなるような、これ対処が難しいんだよなーとか思いつつ、なんとか何も買わずに買えることにした。店を出るまでの道のりでもしきりに戦利品を探してはいたが、そのたびに家に帰ってすぐそれを開きたいのか?匂いを嗅ぎたいのか?ページの継ぎ目の、と戒めて、脱出。ショッピングモール全体(一部除く)で使えるギフト券だったから、隣の無印良品に寄ってみるくらいしても良かったのだが、本屋を無傷で出た上でさらに望むことなんてあるだろうか、とその後は迷いなく車に乗り込み、帰路についた。

まあぼちぼち書いとくか、って感じで夜の部開始。18:50、今日はもう小説じゃない何かとして、従来通りなのか小説と細分化したあとなので若干異なるのか、無意識レベルではないも変わらなそうですが僕の言葉遣いは多少変わっていそうです。久しぶりにこんな時間まで書いているような気がしますね、これでまだ風呂も入っていない、飯も食っていないとかだったら少しなりとも嫌な持ち越し方をしてしまった、ということを書くことになありそうですが両方終わっちまってます。昨日彼女が、会社に提出する火災保険の書類が見当たらないと言って心配そうに家を探し回っていて、探している表情からしてしばらく見つかりそうにない気がしたので、僕はもう先にシャワーを浴びさせてもらっていましたし、あなたもシャワー先に済ませちゃえば、どうせやらなきゃいけないことなんだから、と言うと彼女は渋々ながら一度探し物を中断することを選んでいました。さっぱりしたあとに、あるいは一拍おいたのが単に良かったのかもしれません、風呂の中でどこに置いたか考えてみたけど特に思いつかなかったと言うことでもう一度最初に探したファイルを開いてみると、僕はその瞬間を見てはいませんでしたがたぶん、ポロッとあまりにあったり出てきたみたいでした。僕としては話の収まりがよすぎてほらね、というにはむしろ恥ずかしいような感じだったのもあって、よかったね、とだけ言って、でもうまく言葉にはできなかったけど、僕が生活の中でコツコツ、じわじわ感覚を掴んでいる、生活を前進させていく、どうせやらなきゃいけないことは、特に家事や身だしなみのことなんかはぶーたれる前にちゃちゃっと、擬音の通りただの手作業として考えることをやめてもうやっちゃう、これを坂口さんが言うところの「手を動かし続ける」ことだとすれば、流れが滞らないから、むしろ良くなるからものごとがうまくいくと捉えても良さそうですし、今日の僕はどっちかと言うとさっきも使った一拍おくことで別のコードに生活が遷移する、つまり千葉さんの勉強の哲学でいえば、なかなか見つからない探し物を中断して家事を進めてみること、これもユーモアなのだといえるかもしれません。こじつけているようで、言葉だけみてもたしかにユーモアだと言えそうだから不思議ですね。寄席に行かずに一周回って、あるいは周回というよりなんでしょう、音楽がループしているようでもあり、マリオのステージでたまにある、画面の右隅を見切れたかと思えば左側から顔を出すような不思議な循環、あれをみて即座に気持ちがいいという人はいないかもしれません、かと言って気持ちが悪いというわけでもない。よくみる当たり前のことではないのに、僕達の目にはよく馴染むその円環。よくわからないけど、気になるけどそれはじつはこうだったんだ、と教えてもらわぬまま死んだってああ、そう言えばそうだったね、そんな話もあったねと言ってしまいそうな、そんな。

新しい文学のためには買えなかったが、勉強の哲学を最後まで読み切れた。もっとも全てのページにそこそこの時間をかけて目を通したからってそれが完全な読書体験だといえるわけではないというのは本書の実践編でキモとなる考え方ですし、しばらく前、ちょうど1年ほど前に読んだ乱読のセレンディピティや坂口さんのパッと目についたセンテンスを読む読書、その辺りのイメージともつながってきて、もっと自由に読書がしたいと紹介されていた読んでいない本について堂々と語る方法も早速図書館で借りて読み始めましたが、それでも「読み切ったあ!」と思わず言ってしまうような爽快さがあったのも書き留めておきたい。読み切ること。通読するって書こうとしたけどしっくりこないから、とりあえずは読み切る、としておく。読み切るだったらもっとたくさんの可能性がひらけてきそうな気がする。今は通読という言葉をあえて使っていないだけで、似たようなものだと実は思っているけれど。そうだ、今年の抱負はやり切るで、何もかも発展途上だけど、毎日毎日仕上げた、投稿だ、入稿だ、と言ってみて、だから今、「やり切った」をやり切ったといえそうな一年だと思えているじゃないか。自分で書いたもの、人の書いたものを読むこと、しかし僕の使う言葉はその時々の環境に依存していて、これまで本意であろうがなかろうが出会ってきた人の影響をモロに受けて、局所的には丸パクリと言えそうでもあって、かと思えばなんであなたは俺のことを書いているんだ?と思えるような他人の文章もこの世にはあって、あるいは一つ文を読んだ途端に極めて個人的な情景が立ち上がってきて、それが読書体験として記憶に刻まれて、そうして僕は生きている。どこいるかはその都度言葉にしなければならないほど、あるいは言葉にすればどこにでもいられるような場所で。


追記
探し物を「中断」して、という言葉を使うとユーモアの切断にも見えるが、コードをぴょんぴょん飛び越えていく、意味なんか考えずに身一つで、そんな情景を思い浮かべて、あるいは「見つかりそうにない探し物」を完全なる真理へと向かうアイロニーに見立てて、ユーモア方面への展開の一歩目としてのユーモア、と合間の家事を位置づけるつもりで、この言葉を拝借した。読んでて引っかかったから珍しく追記してみた。

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