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鳥も玉子も、どちらも良いご飯のお供

「鶏が先か、卵が先か」
このフレーズを耳にしたことのない人はいないだろう。
きっとこれまでの人生で何度か目にしたことがあるはずだ。それは本の中でかもしれないし、雑踏の中で聞こえたかもしれない。
科学的にどちらが先というのは一応決着がついている、というような記事を以前読んだことがある。確か鶏が先であったと思うが、詳細についてはよく覚えていない。
ただこの話を思い出すと、唯名論と実在論の話をなぜか思い出してしまう。

私は哲学をきちんと勉強したことがなく、唯名論と実在論の話も国語の教科書で読んだだけなのでどちらがどう、などと説明を求められてもはっきりということはできない。きっとここでまとめるよりもこの文章を見ている媒体に聞いたほうがよっぽどわかりやすくきちんとした説明が得られるだろう。
私の朧気な記憶が正しいとするなら、つまるところこの議論は、「名前が先か、存在が先か」というようなものだったはずだ。ある形はその名前を得る前に存在しえるか、というような内容だった気がする。夜更かしの頭で考えている文章なので間違いがあってもそのまま読み飛ばしてほしい。
法律や医療の世界ではきっと名前が付く前に「それ」は存在しない、というスタンスを取っていたはずだ。法律では例外を除いて法律が制定される前の行為については罰せられないし、医療であっても診断名がつくことはない。
記録に残すことを生業とする界隈ではこの気配が強いのかもしれない。後世につなげていくという一連の流れを担っていると考えれば当然かもしれない。
一方「それ」が名前より先行しているのはいつだろう。あいにく寝ぼけた頭ではぱっと例が思い浮かばない。しかし、一つ考えたのは、小さい子どもの一人称が自分の名前であることはもしかするともしかするかもしれない。

田中花子さんの例を考える。
姓が田中で名が花子であれば、きっと性別は女性であることが考えられる。
私がこれまでの人生で出会った、一人称が自分の名前であった人物のおおよそが女性であったことから、この例で考えたい。
この場合、彼女の一人称が自分の名前であるとすれば、それは名の部分を取って「はな」や「はなこ」、「はなちゃん」や「はなこさん」などが考えられる。一番ポピュラーなのは前2つであろう。私も耳にしたことがある。
しかし、一人称が自分の名前である女性というのは年齢を経るにつれ減っていく感覚がある。少なくとも、公の場では「はな」とするよりも「私」としたほうが社会に受け入れやすい。しかし職業的な理由を除いて、「はな」さんが大学生の年齢であっても、私は出会ったことがある。
その理由をふと考えてみると、きっとアイデンティティというやつを探しているのかもしれないと思った。

自分の存在を証明することは案外難しい。特に人間社会に所属していれば、その所属する集団の属性によって己の存在は簡単に揺らいでしまう。ある時は女性であり、社会人であり、長女であり、日本人であり…。それに、存在証明に失敗してしまえば耐え難い心的苦痛がもたらされる。
多くの集団に存在証明の鍵をばらまいておくことは、最終的な安心感につながるのかもしれない。この集団がだめでもあの集団で私が「私」であることを証明できれば、経験される心的苦痛は軽減される。
しかし、これが小さな子どもでは難しいのかもしれない。なにせ子どもの見ることの出来る世界は大変狭い。それは物理的にも、精神的にも。
幼いころは学区外の外に出ることは大冒険であったが、大人になった今では学区外どころか国を出ることさえ容易である (条件を満たす必要はあるが)。
それゆえ存在証明は狭い世界の中で行う必要があり、またその存在証明には親の与える影響が大きい。そうすれば、親から与えられた名前を一つの拠り所として存在証明を為さんとする試みもうなずける。
繰り返し自分の名前を言い聞かせる。耳から入ってくる声と喉を震わせた振動の2つによってまずその名が脳に認識される。その声を聴いた誰かが反応して、その存在はより強固なものとなる。うん、なんだか綺麗で納得がいく。

私が自分の名を一人称として用いなくなったのはたしか小学校高学年の頃である。自分で言うのもなんだが、私は自分の名の響きが何よりも好きだ。しかし大人になった今、自分の名を名乗るよりも「私」「自分」「あたし」といった一人称を用いることが多い。この文章の中だけでも何度書いただろう。
私が所属する集団も沢山あり、その属性によって「私」も変化するがその土台にはきっと名があると信じている。私の原点はそこである。
こう思うと姓は名に比べて「私」の色が弱い気がする。より大多数と共有されているものであるからかもしれない。もちろん姓も好きである。

どちらにせよ、朝と呼ぶ方が良い時間にこんなことを考えていれば眠れないのは当然である。
出発点は「鶏が先か、卵が先か」であった。そんなことを考えていればお腹が空いてしまうと連想ゲームをしたのが失敗だったのかもしれない。
しかし一つ私の中で思考の着地点を見つけることができたのは何にも代えがたい幸福である。


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