できるのは悪いこと?

「できない人の身になって考えなさい」「できるからって調子にのるな、あぐらをかくな」今までの人生で何度言われてきただろう。

大人になっても、私にはこれらの言葉たちが腑に落ちない。

私が「できる」側の人間でいられている理由はいくつもある。私より「できる」人だらけの環境に身を置いていないということも主な理由だと思うが、少なくとも学校や資格試験の勉強、ピアノに関しては努力したのだ。自分の能力・体力のリミット等も加味した上で現実的な目標を定めた。そして志望校には合格したし、受けた試験はすべて一発合格している。無謀な挑戦をせず自分にあった目標を定めることだって一つの努力ではないのだろうか。

私の働く不動産業界では営業の人たちは営業成績での序列があるが、それ以外にはっきりとした差がある。宅地建物取引士免許を持っているかどうかだ。所持者が少なければ従業員を増やすことすらできないのだから、私の会社も含めほとんどの不動産業者で有資格者には資格手当を支給している。毎年受験申込の締め切り日や試験日が近づくと未取得者から「どうやって受かったの」と聞かれるが答えは毎年同じ。テキストを覚えて過去問を解き、〇×形式で×になる問題文はどこがどういう理由で×なのかを答えられるようになる。それだけだ。どんな試験だって変わらないと思う。毎年答えているのに実行する様子のない人たちは、すでに受験回数2桁に突入している人までいる。「俺は月瀬さんみたいに頭よくないんですからそんな簡単に言わないでください」と言われるのにもうんざりだ。それができるようになるまで私は努力しただけなのだ。努力してもしできないと思ったのなら、あきらめて別のところに力を使えばいい。自分に合った目標に対しての努力にすればいいのだ。それすらもできない人たちのことを思いやれと言われてもバカバカしすぎて言葉がでない。

私は営業成績を上げていくことはできないと思った。だから、資格を取って勉強していく道を選び選んだ道で努力しているだけだ。忘れないようにテキストを読み返すだけではなく、法改正がないか随時調べて対応を続けなければ取引で問題が起きてしまう可能性があるから日々勉強である。

だいたいできない側の人間に合わせていたら、進歩していかない。レベルが低下していくだけだろう。できないものは淘汰されていくのだ。自然界だってそうだろう。競争に勝つか、生きられる場所を探すかができなければ生き残れない。

だけど実際は、「思いやり」の大義名分のもと、できる人が自分のやるべきことの他にできない人の面倒を見させられたり、早く終わっているのだからと仕事が遅い人の分まで肩代わりをしてお給料が変わらないのに仕事量を増やされている人が多いと思う。どういうわけなのか、面倒を見てもらう側・仕事を代わってもらう側の人たちはそれを一切恥じと思わずに自分ができるようになろうと思わない人が多いのだ。

努力して結果を出し続けている人が報われず大変な思いをし続け、できない人・やらない人がそのままいられることが、野生動物とは違う進歩した人間の社会だということなんだろうか。それではできる側の人間がポキリと折れてしまう。もっと上に行ける人たちがそこで折られてしまう。それは集団にとってマイナスではないのだろうか。

一部のできる人たちだけが生きているわけではない、ともっともらしく言われるけれど、一部のできる人たちがその力をのばし進めていかなければいつか全員がどうにもならなくなってしまうのではないかと思う。

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