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『引きこもり探偵』第六話 気が狂って、秋

 夕暮れ。ひぐらしの声を聞かなくても、もう違和感を覚えなくなった。
 文時ふみときは仰向けに寝そべりながら足を組んで推理小説を読み耽っていた。いつも日が暮れる前に編砂あみすなには帰ってもらう事にしている。告白をしてからこの方、編砂あみすなのアパートの滞在時間が増していた。単純にこの文時ふみときという男に対しての抵抗がなくなったということもあるが、彼女なりの恋人としての在り方を考えてのことのようにも思えた。対して文時ふみときは、複雑な気持ちを抱えていた。ずっと自分の世話をしてくれる彼女に対して、好意を抱かないわけはない。しかしあの告白は恋情ゆえのものかと言えばそうではない。彼なりに彼女の生命を守ろうとした結果であり、それ以上の意味はない。だから文時ふみときは彼女に恋人としての振る舞いの一切を求めたことはなかった。キスや体の交わりはもちろんのこと、手を繋いだことすらない。そもそも部屋を出ないのだから、手の繋ぎようなどないのだが。
 編砂あみすなが、文時ふみときの想像以上に恋人としての振る舞いを気に掛けるので、申し訳なく思っていた。そんな調子なので、編砂あみすなが手料理を振舞おうと申し出た時も丁重にお断りしていた。彼女の時間を必要以上に奪いたくなかった。どれだけ簡単なものでも、たった一回でも甘えることはできなかった。また作ろうかと言われた時に断りづらさが増すのだ。口に合わなかったから拒否しているように思われたくはない。それゆえ文時ふみときは、ただの一度も手料理を作って貰うことはなかった。

 不意に、顔の横に置いておいたスマフォの画面が明るくなる。編砂あみすなからのメールだろう。これも、告白後の変化だ。基本的に今まで、買ってきて欲しいものや事件が起きてないかなどの必要に迫られる情報のやり取りしかしてなかった。しかし今送られてきたメールの内容は違った。

『無事に家に到着しました。この時期になると一気に暗くなりますね。こういうの、つるべ落としっていうらしいですね。文時ふみときさんは知っていましたか? そう言えば、アパートの前のすすき、穂がふわふわと涼しそうに揺れていました。写真を送ると事件になってしまうかも知れないと言うことで、送れないのが寂しいです』

 文時ふみときはこういう時、なるべく短い文章で返すようにしていた。彼女は恋人らしく振舞おうとした結果なのか、いつも全力で返信してくれる。長文を打ったらそれ以上の長文が返ってくるのだ。最初はそれが楽しくて、ずっとメールのやり取りをした。文時ふみときは暇なので問題ない。しかし、彼女には本来の公務員としての仕事がある。次の日疲れた目をしていたのを文時ふみときは見逃さなかった。それからは、メールが早くケリがつくように、短文で返すように心掛けていた。
 もしかしたら、軟禁状態の自分のことを気遣っていっそう恋人らしく振舞っているのかも知れないと考えた文時ふみときは、以前確認を含めて念を押したことがあった。

「本当に形だけでいいからねえ。僕の部屋に居ない時、君は別の人と付き合っていていいんだよ」

 すると編砂あみすなは薄っすらと頬を染め、嫋やかに笑った。

「そんなことしたら、浮気じゃあないですか。文時ふみときさんの仰ることは解りますよ。私が殺されない為に、そういう工夫をしてくれただけなんだって。でも、だからといって簡単に浮気できるほど、器用な女じゃありませんから。それに、今他の方とお付き合いをしたら、その方にも嘘を吐くことになってしまいますから」

 その通りだった。いくら仮初とは言え、自分と付き合っていると言う事実を曲げることはできない。彼女の純心を思えば、当然の事だった。彼女の命を守る為とは言え、心苦しかった。かといって、本当の恋仲になることもできなかった。何せ彼は一生この部屋を出ることができない。恋人になったとしても、彼女とデートすることすらできないのだ。ご飯も、ショッピングも、花見も、花火も、祭りも、一緒に行って楽しむことができない。そんな彼が彼女の手を取る権利などあろうはずもなかった。今の彼はただの足枷にしかならない。彼は彼女を幸せにすることはできない。一緒に居るだけで、いや、自分が生きているだけで彼女は不幸になるのだ。そんな毎日。そんな人生。

「死ぬかあ……」

 ふと、そんな思いが脳裏を過った。
 だがすぐに過ぎ去る。そんなことをしても、編砂あみすなが良心の呵責に苛まれるだけだ。どれだけ遺言書で彼女は悪くないと言ったところで、彼女は自分が擦り切れるほど責めるだろ。

「ああそうだ。僕は死ぬには遅すぎた。澄亜すみあさんと会う前に死んでいれば、な。ははっ、ははっ、はっ……くそっ!!」

 身を反転させ、思い切り畳を殴りつける。ざらついた触感が、節くれ立った指に食い込む。そのままうつ伏せになり、畳に額を擦りつける。最近こうして、やり場のない憤りが爆発して、衝動的な行動に身を投じることがあった。

 しばらくして、ふうと溜め息を吐き、本を手に取った。

 考えても埒が明かない問題なのだ。この名探偵が、地球上で唯一解けない難題がこれなのだ。だからとにかく娯楽で気を紛らわすしかない。彼にはそれしか残されていなかった。
 本を読み終えて、しばらく読後感に浸っていたが、彼はがばっと立ち上がった。

(もしかして……)

 畳の上で円を描いて顎の無精ひげをシャリシャリと撫でまわす。

「僕が読むから作中で殺人事件が起きるのでは……?」

 彼が出歩けば人が死ぬ。そのセオリーを当てはめればそれはその通りかもしれなかった。実際ネット記事を読んでいたら彼の目の触れる位置に殺人事件のニュースが飛び込んできたのだから、オフラインでも同じことが起きると考えてもおかしくはなかった。いや、今の彼には、そうとしか思えなかったのだ。

(何なのだろう)

 磨りガラスの向こう側の闇を見つめる。

(いったい僕は、何なのだろう。初めに言われた時はそんな馬鹿なと思った。有り得ない。僕が殺人事件のトリガー? 頭がおかしいんじゃあないのか? 日本政府も馬鹿だなあ。そう思った。だが実際の馬鹿は僕だった。僕が外を出歩かなくなって、殺人事件はなくなった。ネット記事を見たら殺人事件が起きて、見なくなったらなくなった。そうして今も本のページを開いたら殺人事件が起きて、開かなかったら起きない。僕が接しなければ、誰も死なないんだ。僕は見ただけで人を殺すんだ。澄亜すみあさんは死んでいないけど、人生を奪ってしまった。生きているだけで迷惑。そのくせ死んでも迷惑。無価値ならまだ良かった。マイナス。生まれながらに殺戮兵器。こんな兵器だ。死にたいと思うことすら烏滸おこがましい。死にたいと思うことが許されない。死にたいと思いたい。そう思えたら、せめてそれが生きていることの証になるのに)

 彼はいつの間にか、本でもスマフォでもなく、一枚の包み紙を持っていた。
 チョコバットの包み紙。
 ホームランと書かれた包装紙。
 ボソッと呟く。

「交換しに行っていいかなあ……」

 部屋に満ちた静寂しじまに、一滴の言葉が零れた。畳に広がった波紋は壁に吸い込まれていき、一切の打ち返しはない。やがて波も無くなり、恐ろしいほどの静けさだけが、部屋に降りていた。
 ここに編砂あみすなは居ない。
 しかし静寂せいじゃくの中、換気扇の向こう、断続的に届く鈴虫の羽音、それよりも間近に、彼は聞いた。嬉しそうにはしゃぎ「どうぞ、行ってらっしゃい」と言う彼女の声を。

 彼はアタリの包装紙を握りしめ、サンダルを履いて、ドアノブを捻って外に出た。

 ドアを開けたその瞬間、目の前には怪しげな男が立っていた。
 正しくは、どこかに行こうとしていて、たまたま文時ふみときに見つかり、思わず立ち止まってしまった。というようである。彼の手にはサバイバルナイフが握られていた。ドアノブに手を掛ける。

(くそ! 間に合え!)

 文時ふみときより一挙動早く、男はドアの間に革靴を滑りこませていた。力の限りドアを引くがびくともしない。ひょろっと痩せた文時ふみときの体では、力任せに男を弾き飛ばすようなことはできない。文時ふみときが次の行動を起こすより早く、男は白刃を突き下ろしていた。
 銀色が闇を滑って、心臓一突き。
 文時ふみときは勢いのまま仰向けに倒れた。

 やがて、自重でドアがバタンと閉まる。

(不覚……。せめて、……澄亜すみあさんが、鉢合わせに、なりません、ように……)

 霞みゆく景色と思考の中、文時ふみときは一つの違和感を覚えていた。
 その違和感の正体を考えた。

(あの男……、僕を狙いに来たわけじゃあなかったんだよな。僕を狙っての犯行なら死んだかどうかの確認はするはずだ。それに体の向きから考察して、別の部屋に行こうとする途中だったように思える。普通に考えれば空き巣だが、こんな夜に? 夜は皆が帰って来ている時間帯だ。逆に今は寝静まるほど夜更けでもない。金目当てに空き巣に入るなら、昼間の方が都合は良いはず。それにあのサバイバルナイフ。結構大ぶりだったぞ。空き巣に入って結果的に住人と鉢合わせる可能性を考慮して武器を持つなら、胸ポケットに隠せるサイズが妥当。なのに隠し持つどころか、抜き身で持ち歩いていた。つまり初めから誰かを殺す前提だったんだ。そのうえ、ビジネススーツに革靴。明らかにアクティブな動きを前提としていない。つまり、忍び込むために屋根によじ登ることなどは最初から考えていない。それよりも怪しまれないことに重きを置いた。忍び込まずに部屋に上がる方法と言ったら玄関から正当に行くしかない。つまりターゲットは顔見知り。サングラスとマスクは直前で外す予定ってわけか。だとすると……)

 違和感は無数の考察を生み、文時ふみときの思考を明瞭なまま現世に留めた。

 恐らく本来行うべきだった犯行を終えた犯人が立ち去っていく足音を、ドアの向こうに聞く。暫くして不意に鈴虫が鳴りを潜め、秋驟雨が過ぎ去った。

 ぶぉぉ——ん……と言う換気扇の乾いた音と、雨どいを滴る濡れた音に室内は満たされる。
 静寂と言うにはあまりに喧しいアパートの一室で、心臓が働くことをやめた体から切り離されてなお、彼の真理の追及は間断なく続いた。


#創作大賞2023

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