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「表現の自由」は誰のもの?—— 欽定:戦後民主主義——


0. あいちトリエンナーレ2019でのできごと

 3年に一度開催され、今年で4回目を迎えた国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で、企画展「表現の不自由展・その後」が開幕からわずか3日で中止となったニュースが大きな話題となった。はじめに言っておかなくてはならないが、筆者自身はこの展示を実際に見に行ったわけではないので、そのつもりで以下の文章を読んでほしい。
 経緯を確認しておくと、「表現の不自由展・その後」とは、「日本の公立美術館で、一度は展示されたもののその後撤去された、あるいは展示を拒否された作品の現物を展示し、撤去・拒否された経緯とともに来場者が鑑賞することで、表現の自由を巡る状況に思いを馳せ、議論のきっかけにしたいということ」(註1)を趣旨とするものであった。
 しかし、「平和の少女像」や昭和天皇の肖像を燃やすような映像作品に対して、ネット上での批判が高まり、職員への脅迫や恫喝、京アニ事件を彷彿とさせるようなガソリン放火の犯行予告まで至ったことで、実行委員会は企画展の中止を決定した。
 騒動はこれにとどまらず、名古屋市の河村たかし市長が、これら展示を「日本国民の心を踏みにじる」ものであると批判し、それに対して大村秀章愛知県知事が「憲法21条の検閲禁止に抵触する」と河村市長に批判を返した。ネット上でのリベラル派の反応は概ね、大村知事のこの見解に同調するものであり、「戦後最大の検閲事件」とさえ嘯かれている。「戦後最大」であるかは措くとして、論点はもっぱら「表現の自由」をめぐるものとなっていると言ってよい。
 だが、そもそも「表現の自由」とは何であったか?それは実際には歴史的に獲得されてきたものであったはずだ。理論上では、自由権は生まれながらのもの——天賦人権説——とされているにもかかわらず、である。

1.「表現の自由」をめぐって(明治~戦前)

 「表現の自由」はフランス人権宣言にもあるように、早くから民主主義社会における基本的な権利として見なされてきた。日本では憲法21条で保障されている。
 しかし市民権の獲得は、世界中で一様に、また平和裏に行われてきたわけではない。それは、各国の近代化の進展と相即してなされたものであった。フランスにおいて、それは文字通り血を流して勝ち取られたのだし、日本では戦後を待つこととなった。
 ここで考慮しなくてはならないのは、明治以降の日本と欧米諸国が辿った近代化の道程の違いである。この違いこそが今日のさまざまな政治的課題の発現に大きく影響しているからである。
 日本の近代化の進展についての分析では、戦前から「日本資本主義論争」と呼ばれる古典的な論争が存在するが、ここでは深く立ち入ることはせず概略にとどめる。
 日本資本主義論争における基本的な争点は、「明治維新をどう評価するか」という点にあった。 
 講座派と呼ばれる勢力は、明治維新の性格を絶対主義の成立と定義したが、これはコミンテルンの三二年テーゼと認識を同じくしていた。しかし今日的観点からふりかえっても、当時の日本の国力からして、これを前資本主義段階とする理解には無理があった。
 一方の労農派は、明治維新をブルジョワ革命であったと考えた。この認識は当時の日本資本主義の高度な発達をうまく捉えたものではあったが、それゆえ同時に天皇制に対する視角は失うこととなった。ブルジョワ革命のモデルであるフランス市民革命においては、革命の遂行によって王権は消滅したのであり、ここを参照先とするかぎりにおいて「ブルジョワ革命後の王権の問題」について適切な解を与えることは不可能であるからだ。
 批評家の菅孝行は、近著(註2)でこのアポリアに対してひとつの回答を与えている。菅は、版籍奉還から金融資本育成までの明治政府の様々な政策を整理・検討し、以下の結論を下す。曰く、明治維新は天皇の権威に依拠した下級武士による政権奪取と支配で始まったので、それ自体はブルジョワ革命ではない。しかし維新勢力は、天皇制という日本固有の統治形態のもとで急速な資本主義的発展を推し進めることに成功した、と。
 さらに菅の議論をなぞる。欧米の近代国民国家では、資本主義化の推進をブルジョワジーの権利として自己正当化する国家構想をともなうため、自由と人権の保障が統治原理に組み込まれていた。しかし、明治期日本では資本主義的経済発展は、自生したブルジョワジーによってなされたのではなく、近代天皇制という特殊の下で強権的になされた。そのため「経済による自然淘汰の正当化」のみが保存され、「政治的権利保障」が脱落したというのである。


2.「表現の自由」をめぐって(戦後)

 そうであるならば、本邦では「表現の自由」を含む「自由と人権の保障」はいつ獲得されたのだろうか。それは戦後、GHQによる占領統治を通じて、であった。
 しかし、この占領統治が曲者であった。戦後、米ソによる冷戦構造が形成されると、アメリカは日本をいち早く資本主義陣営の一員として独立させることを目論み、戦勝国で構成される極東委員会が成立する前に、突貫工事で憲法草案を完成させた。
 アメリカは占領統治にあたって天皇制の存続を必須と考えており、この計画はすでに1942年段階で存在したことが知られている(註3)。市民意識の未成熟な日本に民主主義を根付かせるためには、天皇から民主主義を「下賜」させるほかないと考えたのだ。
 しかし、当時の国際世論では裕仁(昭和天皇)を戦争犯罪人と見なす論調が一般的であり、事実、さまざまな面から彼に戦争責任があったことは、その後の多くの研究成果(註4)が私たちに教えるところでもある。にもかかわらず、日米両政府は戦争放棄(9条)とバーターにすることで、昭和天皇を戦犯指定から外して天皇制(国体)を戦後も存続させることで同意し、押し切ってしまった。さらに付言しておけば、昭和天皇が憲法施行後も(つまり国政に関する権能を失ったのちも)、沖縄の半永久的な軍事基地化をワシントンに打診するなど、戦後体制の確立に大きな寄与があったことは、もはや周知の事実であろう(註5)。
 ところで現行憲法制定による「天皇から国民への主権の移動」は、それが憲法改正という操作によってなされたことで法理上の困難を生みだした。主権の移動は、通常の憲法改正作業では為しえない範疇にある。戦後の憲法学は、この法理上の異常事態を「1945年8月15日に革命が起こった」とみなすアクロバットによって突破し、かかる「八月革命説」はいまだに憲法学において定説の位置を占めている。
 こうして、紆余曲折を経て「表現の自由」はようやく獲得された。しかし、それは昭和天皇の戦争責任をあえて問わないことで可能になったものだ。絓秀実が指摘しているように(註6)、8月15日に革命など起こらなかったのであり、事実、昭和天皇にとって戦争責任とは「文学方面」の「言葉のアヤ」でしかなかったのである。


3.とりあえずの結語

 結論に入ろう。さしあたって本稿で指摘しておきたいのは次の点である。
 すなわち、いわゆる戦後民主主義は昭和天皇の戦争責任を徹底して隠蔽することによって成立しえたのであり、憲法21条の「表現の自由」もまた、この枠内にとどまるものでしかないということである。
 その意味で、「あいちトリエンナーレ」に出展された作品——昭和天皇の肖像を燃やす映像作品——への右翼の非難に対する、21条を根拠にした左派リベラルの反批判は、根底的な有効性を持ちえまい。
 念のために付記しておくが、筆者は「表現の自由」それ自体を否定しているわけではまったくない。「表現の自由」は保障されるべきである。また、大村知事は公務員である。公務員には憲法遵守義務が課されている(憲法99条)。大村氏は自己の職分において最大限の論陣を張ったのだと評価してもよい。だが、天皇制もとい戦後民主主義を批判する左派が、それに乗じてよいだろうか。護憲派のリベラル勢力にしても、昭和天皇の戦争責任を不問に付したまま来たのだという欺瞞性自体は抱懐しておくべきだろう。21条を根拠にした「表現の自由」論は、成立過程からみて天皇制をそのアキレス腱とする。
 戦後の左派には、昭和天皇の戦争責任追及を断念して欺瞞的な「表現の自由」を甘受したことに対する、歴史的な責任がある。
 

[註]

1)  「「表現の不自由展・その後」について津田大介監督のステートメント(2019年8月2日)」(https://aichitriennale.jp/news/2019/004011.html)

2)  菅孝行『天皇制と闘うとはどういうことか』(航思社, 2019)

3)加藤哲郎『象徴天皇制の起源』(平凡社新書, 2005)

4) 一例として、豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本』(岩波書店, 2015)

5) 同。

6) 絓秀実『増補 革命的な、あまりに革命的な』(筑摩書房, 2018)

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