京都アニメーション放火事件に際して、わたしの思うこと


 2019年7月18日、京都府伏見にある京都アニメーション第一スタジオが放火され、多くの死傷者を出した。事件発生当日午後22時の時点において、死者は33名、負傷者は36名に及んだ。戦後最大の死者を出した事件として世間の関心も高く、翌19日の段階で本件についてのwikipediaページも既に作成されていたものの、警察に確保された容疑者もまた重体であり、事件の詳細についてはまだわかっていないことが多い。
 本件がこれほどの注目を集めることになったのは、死傷者数の多さもあれ、京都アニメーション(以下、京アニ)が世に送り出してきた作品の質の高さにその一因が求められよう。BBCやCNN、中国のCCTVなどでも報道され、SNSでは世界各国のファンから#PrayForKyoaniのハッシュタグで応援の投稿を見ることができる。
 ここで立ち止まって考えたいのは、いまだ十分な情報がない中で今回の事件をどのように理解するのが適切なのかということである。すでにインターネット上では容疑者の国籍を云々する差別的言辞や、いわゆる「オタク」に対するフォビア的反応(あるいはそのような反応を警戒する投稿)も散見される。しかし、問題はそのようなあからさまな次元に留まってはいない。
 TVでニュースを見ていると、日本の文化に対する大きな損失だという声も多く聞かれる。事実の一側面としてはそうだろう。だが今回の事件の本質は、そんなところにはない。京アニ放火事件は、ノートルダムの火災や金閣寺炎上とは根本的に違っている。実際に多くの人々がこの事件をテロだと考えていることがその証左である。
 あるいは事件当日にTwitterのトレンドにもなったように、オウム真理教事件と比較する向きもあるが、これもナンセンスだ。反国家的志向を持つ大規模な宗教団体が明確な目標を持って、だが結果的に対象を無差別に殺傷した事件と、今回の事件とでは、死者の多さくらいしか共通点はない。死者の数だけでいえば、世界中で今この瞬間も、宗教原理主義組織によるテロや、アメリカを始めとする資本主義諸国家による殺戮で大勢の人が殺されている。だがここで世界の話をしても始まらない。市井の人々からすれば自分の身に降りかかるおそれがない以上、現実感はないからだ。ここで人民のかかる態度のよしあしについて論じるつもりはまったくない。(そんなことをしても悪しき知識人主義の陰を帯びてしまうだけだ)。では、相模原事件や池袋暴走事故は?川崎殺傷事件は?
 筆者はそのような比較にも、あまり意味を感じない。それは、今回の事件を社会構造にのみ還元するような説明しかもたらさないからだ。「今回の事件は現代日本社会の構造上、必然的に、しかし偶発的に生起した事件である」という風に。
 容疑者の供述がない以上、こういう説明は倫理的にも正しくない。事件を構造の問題として片づけてしまえば、われわれが考える対象は事件そのものから社会構造の改革(あるいは革命⁉)へと移ってしまう。そうではなくて、われわれは今は事件そのものに向き合うべきだろう。
 だが、上に述べたような左翼教条主義的見解が間違っているのは、むしろそれだけでは片づけられない問題が残っているということにある。池袋の事故や川崎の事件は確かに痛ましい事件であったことに変わりないが、普段政治や社会に関心のないライトな層にとっては一過性のショックとして処理され、1週間もすれば忘れ去られてしまった。いわゆる“無敵の人”や高齢者の運転事故が、しばらくのあいだ話題にのぼったとしても、である。この原稿を書いているのは事件の翌日なので、これからこの事件がどのように巷間で受容されていくのかは、まだはっきりしないところがある。
 だが一つだけはっきりしているのは、今回の事件が脱政治的な層に比較のできない大きなショックをもたらしたという点である。政治や社会問題に関心はないけど、アニメは好きだという人は多いだろう。筆者の大学の友人たちもそうだし、Twitterにそういった若い人たち(筆者はこの言い方は嫌いなのだが)はたくさんいる。前述のように、こういったライトな層に対して「たしかに今回の事件は痛ましいが、前代未聞ではない。もっと世界に目を向けなさい。」などと言う人がもしいたとすれば、その人は馬鹿だと思う。筆者だって、たとえば自分が好きな声優さんが被害にあったとしたら、しばらくは立ち直れないと思う。そういう個別的な事情をまったく無視してはいけない。
 話を戻そう。おそらく今回の事件の決定的なポイントは、政治的にライトな層の大勢にとって初めて自分たちの大切なものがテロによって破壊されたという点にある。このことがどのような意味を持つのか、それを完全に把握するにはまだ日が浅いが、しかしそれを捉えなければ的を外すだろうという直観がある。
 それからもう一つのポイントは、今回の事件が政治的にどのように利用されるのかを注視し続ける必要があるということだ。大きな事件の起きたあとは、それに乗じて締め付けも昂じる。オウム事件の後は警察権力の濫用が恒常化し、現在まで大きな禍根を残している。
 いまできることは、事件を政治的に利用しようとする勢力に断固抵抗しながら、それぞれの「喪の作業」に努めることなのではないか。
 

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