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さしものものさしにも休日を


はるか昔。息子が1歳……くらいだったかいつだったか。

たしか新年の集まりで、親戚と息子が一緒にすごろくで遊んでいたときのことです。

もちろん、幼い息子はルールなど理解しているはずもなく、言われるがままにサイコロをふり、わたしが息子のコマをすすめていました。

大人たちは酔っ払っててグダグダ。
あれよあれよというまに、息子がダントツ1位であがりました。

「おめでとー!」
「すごーい! いちばーん!」
とちやほやされるものの、本人はきょとん。

そのうち、
「ばんざーい!」
とまわりがやりだすものだから、息子もきょとんのまま真似して両手をあげます。

すると、それだけで拍手喝采。
とりあえずこれは『いいこと』なんだな、と息子は思ったらしく、ニッコリ。

いちばん=いいこと

というものの見方が、息子の中で確定した瞬間でした。
それは、いうなれば大人の持っていた価値観を取り込んだ瞬間で。

(なるほど。人ってこんなふうにして、ものの見方を身につけていく生き物なんだなあ)

と、ふむふむ思いながら、息子のばんざいを見ていました。

いちばん=いいこと

という新たなものの見方を手に入れた息子は、ひとつ賢くなりました。

でもそのこと自体は、果たして『いいこと』になるのかどうか。

いちばんになったことで、息子は良くもわるくも、勝った負けたと喜んだり悲しんだりする『ものさし』をひとつ持ちました。

あれから10年以上たったいま、息子はいくつ、『ものさし』を抱えているのか?

そして、あきらかに息子よりたくさんの『ものさし』を手に入れているわたしは?

長年にわたって抱え込んだ大量の『ものさし』を使いながら、ばんざいしたり、へこんだり。
どれほどの時間、自分や出来事を計り、裁くことにいそしんでいるんだろう?

考えてみれば、日々、無意識にものさしを使っている。
いや、無意識ということは、ものさしを使っているようで、結局はものさしに使われている。

道具に使われてるってことは、自由ではないってこと。
それって、かなりつかれる……。

今日はふと昔を思い出し、そんなこんなを思った日でした。

いつのまにか、わたしのものさしは、かなり年季が入っています。

入手からずいぶん時が経ち、さしものものさしも、その目盛りが今の時代や今のわたしにあってるとはいいきれない。

だからしばらく、ものさしにお休みをあげようかと。

ものさしに休んでもらっているあいだ、お湯のわく音に耳をすませたり、ゆっくりご飯を味わってみたり、
ただ聞いたりただ感じたりする、そのまんまの時間を過ごしてみようかなと思うのです。

なんだかつかれたなあと思うとき、みなさまも『ものさし』に、ちょっとお休みをあげてみませんか?

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