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その知識、賞味期限きれてますよーー「沈黙の春」のいま

 農薬は自然界で分解されず、植物や昆虫の体内に蓄積され、食物連鎖に従って生物濃縮されていくーーこのような認識はいまや「農薬の常識」とされている。有機農法や無農薬栽培に価値を見出すのも、農薬の害を重く見ているからだ。しかし、その常識の前提となる条件がもはや賞味期限を迎えていたら……。

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レイチェル・カーソン 沈黙の春

「沈黙の春」は農薬の害を訴えた有名作である。科学を変えた一冊を選ぶとすれば間違いなくこの本だろう。製薬会社のみならず一般人までも農薬の害がいかに深刻であり撤廃すべき存在であるか、その認識を浸透させたのは「沈黙の春」一冊の功であるといって過言ではない。
 その結果、先進国から発展途上国にいたるまで農薬廃絶運動が巻き起こった。日本でも農林水産省が主導する厳格な監視のもと残留農薬に対する非常に厳しい検査を経て出荷される。もはや無農薬栽培であろうがなかろうが普段口にする食品に農薬が残っていることなどほとんど(注1)ありえない。「沈黙の春」は功罪両面あれど、少なくとも日本においては食の安全を結果的に格段に引き上げる結果となったのである。

注1)ほとんど、というのは2つの意味がある。 ひとつは、ゼロではないが健康に影響がでるほどではない量が残っている可能性があるということ。しかし健康に影響がでるほどではない量を摂取しても、現代においては全く影響がないといっても良い。本稿はこの点について詳説する。
 もうひとつは、何らかの間違いで残留農薬が検出される事件が過去に何度かあったということ。筆者はメタミドホス混入事件を記憶しているのだが、人体に有害な農薬が有害な量を超えて検出されれば直ちに市場から排除される仕組みになっていることを裏付けた事件とも言える。そのふたつの意味で、日本の農産物市場において農薬が混入することによる害というのは「ほとんど」ありえないといえる。

 ところで、「沈黙の春」を読んでいたのは食の安全に敏感な消費者だけではない、ということに思いを致してほしい。科学者や製薬会社の研究者も当然のことながら「沈黙の春」を読んでいる。薬をつくる以上、儲けよりも人体の安全に注意を払うのは当然のことだ。

 どうしても製薬会社の社員が邪悪に思えてならないのであれば、こう考えてはどうだろうかーーつまり、幼少期に「沈黙の春」を読んだ科学少年が、害の少ない農薬を発明しようと一念発起して大学で有機化学を学び、製薬会社に入社したのだと。

 その結果、実は現代の農薬というのは非常に安全な薬になっている。安全といってもガブ飲みしたら死んでしまうことに変わりはないが、農薬の通常の使用量を守っている限り、そもそも残留もしなければ濃縮もしないように設計されている。

 はて、設計されている、とはどういうことだろうか。化学物質をそんなふうに創ることなどできるのだろうか。答えはYESである。安全な農薬は、設計できるのだ。
 そこにはある大きな前提が隠れている。脂溶性水溶性、そして分解されやすさである。

脂溶性と水溶性

前時代の脂溶性農薬

「沈黙の春」の時代、レイチェル・カーソンが非難した農薬の代表はDDTである。DDTをはじめとしてこの時代の農薬には大きな欠点があった。それは脂溶性である。

 脂溶性とは、あまり水に溶けず油脂などと馴染みやすい性質をいう。
 脂肪は一旦体内に取り込まれると、身体の一部になったままあまり変化しない。もちろん新陳代謝によって古いものが出ていく作用はあるのだが、そのサイクルは一ヶ月や一年という長いスパンになる。
 そのため、脂溶性の物質は例外なく過剰摂取による毒性がある。例えばビタミンA、ビタミンD、ビタミンE、ビタミンKは脂溶性のビタミンであるが、どの物質も過剰摂取症が確認されている。ビタミンですらそうなのだ。脂溶生の農薬たるや過剰摂取で様々な害がでるのも当然である。
 特に昆虫や魚など、新陳代謝のサイクルよりも遥かにはやく食物連鎖によって誰かに食べられてしまう生物の場合、食物連鎖に従って農薬が蓄積されていく。これが生物濃縮である。

 農薬の害や生物濃縮。レイチェル・カーソンによるこれらの主張は、農薬が脂溶性であることが前提となっている。
 ところが現代においてはその前提が改善されている。反農薬の前提となる知識は賞味期限を迎えているのだ。

現代の水溶性農薬

 脂溶性の対義語は水溶性である。水溶性とは水に溶けやすく油と馴染みにくい性質をいう。
 水溶性の物質は体内に蓄積されにくい。理由は2つある。
 水溶性の物質は血液に溶けて最終的に尿として排出される。そのため摂取したところで蓄積しようがない。
 もしそうでなくても、もうひとつの理由によりやはり蓄積されにくい。水というのは非常に反応性の高い物質なのである。すなわち、一旦水に溶けてしまうと同時に溶存している物質や水そのものの反応性によってバラバラにされてしまう。脂溶性の物質は、脂肪に馴染みやすいだけでバラバラになることはほとんどない。一方で水溶性の物質は、何週間も水の中で放置されていると水の運動エネルギーだけでバラバラに破壊される。
 
 脂溶性なのか水溶性なのかは物質の運命を大きく左右するのである。農薬を水に溶けやすくする、ただそれだけで残留農薬の問題は大きく解決に向かうのである。その代わり、DDTのように一回散布でほぼ一年効くような効果はなく、3日から2週間程度の期間で完全に分解されてしまい効果がなくなってしまうだろう。
 レイチェル・カーソンの主張したDDTの害は、脂溶性であることに大きく依存していた。農薬を水に溶けやすくしたことによって、彼女の主張の前提は一つ崩れているのである。

 余談だが、ビタミンCのような水溶性ビタミンもやはり、大量に摂取したとしても簡単に尿となって排出されてしまう。ビタミンCなどの水溶性ビタミンを美容目的で摂取するのであれば、一度に大量に摂っても全く意味はなく、毎日こつこつと少量を取り続けることで効果が発揮されるだろう。

分解されやすさ

 もし農薬が水溶性でなくても、人間の体内に入るまでに分解されやすい化学結合にするなどの工夫がなされている。他にも、仮に人体に入り込んでも肝臓で代謝されて無害化されるように設計された農薬もある。
 このような工夫は農薬の分解されやすさにあらわれている。この点でもレイチェル・カーソンの時代とは前提が異なっている。 

分解しにくい構造と分解しやすい構造

 DDTと現代の農薬を比較してみよう。分解のしやすさについて一目瞭然な違いがある。

DDT

 DDTは明らかに分解されにくそうな形をしている。といってもピンとこないかもしれないが、一方の現代農薬と比較してみてほしい。

アクナトリン

 この構造式はどうだろう。ゴチャゴチャしているだろう。このゴチャゴチャ感こそが安全性の肝である。すなわち、酸素Oや窒素Nなどが間に挟まっているところがポイントだ。
 細かい話は難しくなるので省略するが、酸素や窒素には極性がある。極性というのは電気的にプラスやマイナスに偏っていることをいう。
 水分子も極性がある。極性のあるもの同士は電気的に引き合ってくっつきやすい。そして水分子やその他の物質は、酸素や窒素に攻撃を仕掛けるとその部分で農薬を引き裂いてしまう。結局水に溶けた農薬は破壊されてしまうのだ。

 ここでDDTをもう一度みてほしい。水分子にとって攻撃の手がかりが全くないのである。ベンゼン環もそれを繋いでいる単結合も、水にとってはとっつきにくい存在だ。理由は極性がないからである。
 DDTは水に全く溶けず、バラバラになることはない。脂溶性物質は脂肪に馴染みはするが、単に馴染むだけであって破壊されることはないのだ。水に溶けることがあれば水の運動エネルギーで破壊されることもあるだろうが、DDTは水と馴染めるようなとっかかりが一切ない。
 
 DDTから時代が進み、分解されやすさも格段に上がった。この点でもレイチェル・カーソンの時代とは前提が大きく異なっているのである。

その知識の賞味期限は?

 このように、レイチェル・カーソンの批判は脂溶性・難分解性の農薬に向けられていた。それに対し、現代の農薬は水溶性・分解容易性にシフトしている。こうなると「沈黙の春」時代の知識は現代農薬には通用しない。
 特に体内の蓄積や生物濃縮といった現象はもはや克服されつつある。その理解には化学の知識や感覚も必要である。環境問題に興味を持つとともに、基礎的な化学、生物の知識を備えることもまた、真に環境を変えるためには必要な試みではないだろうか。そうでないと、解決済みの問題に反対運動を掲げる倒錯に陥ってしまうことになりかねない。
 昔の知識では確かに正しかった時期もあるだろうが、日進月歩の分野においては知識の賞味期限を確かめることも必要だ。問題を語るときには、新鮮な問題意識に見合った、新鮮な知識で語りたいものである。

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