崇徳院が怖い

 私は崇徳院が心底怖い。

 崇徳院とは誰か、というと、大昔の天皇である。もう少し具体的に言えば、源平合戦の少し前、保元の乱で後白河天皇との権力争いに敗れた崇徳天皇という人物である。恨みから怨霊となったとも言われ、日本三大怨霊なるものに数えられたりもする。

 私は崇徳院が怖い。
 しかし、人々を恐怖のどん底に陥れた大怨霊が怖いのではない。加えて言えば、私は幽霊などの類に怯える人ではあまりない。

 では何が怖いのかと言うと、驚いたことにたった一枚の肖像画が怖い。
 Googleで「崇徳天皇・上皇・院(いずれであったかは覚えていない)」と画像検索して、下にスクロールするとおそらく出てくると思うのだが、おそらく明治以降であろう、少し写実的なタッチで白黒の肖像画がある。目が大きく、ハイライトのないものだ。鼻も少し大きかったように思う。
 高校生の時、たまたま画像検索でこれを見てしまった私は背筋が凍った。心臓を締め付けられたような苦しさと、親しい人の訃報を聞いた時のような冷たさに襲われたのである。すぐにそのタブを閉じたが、少しの間冷静でいられなかった記憶がある。
 歴史が好きで色々検索していた私が他では経験したことのない恐怖だった。

 その日から、崇徳院の肖像画に端を発する奇妙な恐怖症じみたものを徐々に私は発症する事となる。

 まず、仏像が怖くなった。
 そこらの道にもあるようなちょっとした地蔵菩薩でさえも怖く、観音像や如来像は勿論、東大寺の盧舎那仏など以ての外である。
 次に肖像画や彫刻などが怖くなった。
 程度の差はあるが、たとえば織田信長の肖像画ですら怖かった時期がある。シュメール人像などは今でも恐怖の最大に座しており、ヴラド3や世アレキサンダー大王、ジャンヌダルクの有名な肖像画も直視はできない。
 その次は古いものが片端から怖くなった。
 ただの青銅器であったり教科書に載っているような写本、古い寺や神社、果てには大学図書館の書庫にある100年程度昔の本にさえ少しばかり恐怖を抱いた。

 人生も18年を歩んでから、随分色々なものが怖くなった。それもこれも崇徳院のせいなのだが、人生とは儘ならないもので、私の大学は崇徳院を祀る白峯神宮から徒歩10分弱という最悪の立地であった。ついでに言えば、大学時代の友人の一人は白峯神宮のすぐ横のマンションに住んでいた。
 当時、訪ねる時も去る時も白峯神宮が怖いと大の男が言う様に理解を示し友人が出迎えと見送りをしてくれた事、感謝に堪えない。

 こうして崇徳院が怖い怖いと言い続けてもう7、8年程度になるのだが、最近になってふと思ったことがある。

「あれは本当に崇徳院だったのだろうか」

 実の所、あの肖像画を見た時私は恐怖のあまりすぐにタブを閉じてしまったし、これまでもう一度検索をした事などないものだから詳細は知らないのである。これを書いている今も、あの恐怖にもう一度向かい合うだけの心を持ち合わせていないから検索はできないでいる。
 白峯神宮に近づくと嫌な感じがしたことや崇徳院の怨霊の側面も勝手な根拠として成立していたのだろう。私はあの時、崇徳院を検索して出たからこれまであの肖像画をそうだと思ってきた。もしかしたらあれは崇徳院ではないのかもしれない、と今になって思った。

 我々の日本人のイメージする源頼朝や織田信長、徳川家康などの日本の肖像画とは違うタッチで書かれたあの肖像画はどこで誰がどうして描いたものなのか、一切わからない。ただ公家とか皇族の服装をしていたから、その関係のものではあるのだと思う。逆に言えば、その程度の情報しかない。
 私はあの絵のことを何も知らないのである。

 これまで散々私を苦しめてきたあの絵は一体何なのか。知りたいと言えば知りたいが、同時に知ったところで何も変わらないのだろうという確信がある。崇徳院だったとしてもそうではない誰かだったとしても本当の顔立ちなわけがない。畢竟、私が怯えているのはあの顔に違いない。だから、それを知ることに意味はないし、前述の疑問も大した意味を持たないはずなのだ。
 それでも、どこかにあの絵の正体を知りたいと思っている自分がいる。きっと知ったところで良い方向に進むことは決してなく、悪い方向に引きずられる可能性がはるかに高いだろうという事はわかっているのに、それでも少し気になってしまうのだ
 私の精神を侵した肖像画が、過去の奥でチラつくことが未だにある。どこを見ているのかわからない目が開いた無表情が朧げな記憶でもまだ残っている。そして、その絵の下に何か文字があったような気がする。あの絵に視線を奪われ、恐怖し、すぐさま逃げたにも関わらず、その下に文字があったとどうして思うのだろうか。
 それが本当にあって誰かの名を記されていたのならば、ただ偶然覚えていただけで済むだろう。ただ、そこに何もなかった時、私はまたあの絵が怖いと思うのである。絵の正体を気になる気持ちが、まるであの絵に憑かれたような気がして、あの絵が確かめてみろと言って誘蛾灯のように待っているような気がして。

 私は決してあの絵を検索しようとは思わない。
 少なくとも、あの絵の正体を知って良いことなどないはずだから。あの絵の下の名を、その有無を知ったところで変わりはしないはずだから。

 だから、私はただ崇徳院が怖いと言うのである。

#創作大賞2024 #エッセイ部門


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