文学とビジネス

現在のような出版産業の形は、文学の歴史からすると短い。特に、出版社が大手になり、ビジネス化した形は今までになかったのではないだろうか?

文学とビジネスの相性がいいのかどうか、疑問に思うところだ。

三國清美シェフの自伝を読んだ。
三國シェフは、去年の末にオテルドミクニを閉めた。コロナ後も黒字だったらしいのだが、オテルドミクニは80席あって、「三國の指揮の下、配下の料理人たちが立ちはたらく」みたいなスタイルを取らざるを得なかった。でも、三國シェフは生涯の最後は「ぜんぶ自分で仕切る店」をやりたくなって、オテルドミクニを閉めたあとは、カウンター8席だけでぜんぶの料理を自分でつくる店をやるそうだ。

三國さんの弟子筋が日本各地でのれん分けした三國系の店を出しているので、そっちの監修料もあり、ひとりで店をやっていれば人件費もかからないし、八席のワンオペの店でも黒字が出るということだろう。

出版業界の問題点としては、たとえば大江健三郎の小説は、「一食二五〇〇〇円の高級料理」みたいな「ディープなマニア向け商品」なのに、そういうものとして黒字を出す戦略を立てないで、サイゼリアとか大戸屋みたいな売れ方ばかりをめざしている点にあるのではないだろうか?

高度成長期の「応接間のインテリア代わりに百科事典」みたいな時代の「マスに訴える商売」だけが「儲かるビジネスモデル」だと、大手出版社が考えすぎているような。

ただし、講談社の学術文庫と文芸文庫はうまくやっているように思う。
文庫で2,000円越えたりする本もあるのだが、現役で市場に残ってることに超絶意味がある書籍というのはあるので。
古本屋で20000円の値がつくと買えるひとは限られるが、2000円だと本好きなら手が出る。

マンガが売れに売れていたころは「マンガで儲けて、純文学で出版社のブランドイメージをつくる」みたいなビジネスモデルもあったようだ。
いまはマンガも純文学を支えるほどには売れないので、純文学単体で赤字にしないビジネスモデルが求められている。

ジャポニカ百科事典とか、岩波の古典大系とかを、中産階級が漏れなく買ってくれる時代のビジネスモデルを、大手出版社は更新できていない。
大手出版社にとっての「マーケティング」とは、かつてのジャポニカ百科事典とか岩波古典大系の代わりを捜すというゲームになっていないだろうか。

結局は、コンテクスト=プラットフォームをつくれないと儲けにつながらない。

GoogleやAppleのような「どでかいコンテクスト」をつくる方策もあれば、もっとニッチなコンテクストのつくり方もある。
しかし、「舞台設定」がちがえば、「名優」の像も変わるので、「舞台設定」から考えないとビジネスでも芸術でも成功はありえない。

「コンテクスト」関連で、ひとつ例を挙げると、明治初期、西郷隆盛が岩倉具視ら海外組たちに失脚に追い込まれた顛末については、確実に反・西郷の立場を自分なら取るだろう。

「富国強兵」は、ただ闇雲に金もうけして軍隊が強くなることを目指すことではなく、誕生したばかりの近代日本をゼロから「西洋列強コンテクスト」の中に組み込むことを意味するので、西郷どんは非常に優れた人物だが、これから真剣に作っていかなければならない「コンテクスト」を前にすると、彼は"場違いな権力者"になってしまう。それは国の運営の為に避けなければならない。

国家は個人よりも必ず大きいので、ロマンだけで個人を国家と同等に担ぎ上げるのは不可だ。

薩長土肥のように「ニッチ」と「ニッチ」がせめぎあう幕末から、列強に合わせて「コンテクスト」を築く明治では理屈が違いすぎる。
土台から差し替えなければ、立ち行かなくなる。

「マーケティング」は、物や情報が売り買いされていく現実の市場にまつわる話なので、人間(文学的な存在として)を掘り下げて、直接的に市場の現実とリンク可能とは言いにくいのだが、マーケティングする為の個人のポテンシャルは高まるだろう。

「先見の明」が育てられる。

ソフォクレスやオイディプス王など、古典作品に触れることで得られるポテンシャルは高い。

シェイクスピアは、どんな生涯だったかほとんど不明らしいが、古典の教養が高かったのは確かで、今でいう舞台脚本家の立場に立って、舞台のマーケティングを成功させた人物だ。
当時のお客さんを感動の渦に巻き込む彼の脚本と、企画した舞台の素晴らしさで以て、英文学の礎を築いた。

ウィンストン・チャーチルは膨大な蔵書を抱えていた読書家・教養人で、のちに自身の作品でノーベル文学賞も取るが、古典文学に強く、政治のリーダーとして周囲から「チャーチルには未来が見える」と言われていた。

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