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自分も、ここにいて良いと思える場を持つと言うコト(「私は光をにぎっている」を見て)

今の時代とは、どんな時代なのかを。観るヒトに問う映画だと感じた。来年の東京オリンピックに向けて、東京では再開発が進んでいる。それは、新しい時代が来るということで、良いコトなのかもしれない。

ただ、ひとつの時代が終わるということも強く感じるコトとなっている。個人的には、今年の2月に祖母がなくなり、その時に感じていた一つの時代が終わるという感覚とともに、この映画をみたことによって、映画への思い入れが強いものとなった。

どのような映画であるのかは、映画の公式HPに役割をゆずるとして、僕は、この映画の中で、主人公の居場所となった「銭湯」が担う町の中での役割や、なぜそこが主人公である 澪にとっての居場所となり得たのかを考えていきたい。

拠り所としての銭湯

今の世の中は、時間内にどの位の処理が出来て、それが出来ないと処理速度が遅いヒトと視なされてしまい、すぐに戦力外となるような職場環境が多い様に感じる。僕にとっては高校を卒業し、浪人期間が終わりを見えていた時にアルバイトをした「ガスト」がまさにそうで、どちらかというとというよりも「遅いヒト」に入る僕は1か月ほどで逃げる様に去った。

主人公の澪が東京に来て職を得た「スーパーマーケット」はまさにそうで、時間内のどのくらいの処理をして、お客様のニーズにどの様に答えるのかを求められている職場であるように思えた。その場に馴染むことが出来なかったからこそ、澪は「銭湯」で働くことになったのではある。

現代における「銭湯」の役割とは、ひと昔前、家に風呂がなかった時代には、「銭湯」は多くの人にとって衛生環境を整える必要不可欠な場であった。現在、多くの家に内風呂がある環境の中で「銭湯」は役割を変えている。「銭湯」を利用するヒトにとっての拠り所になっているのである。勿論、湯に入りにきているのではあるが、その場にいる方とのコミュニケーションも含めて「銭湯」を利用していることを感じることが出来るシーンが多くある。拠り所とは、自分がそこにいて良いのだを思える場所であり、映画の中では、多くの場所がその様な場所として出てきている。

映画冒頭で、認知症の男性の方のエピソードがあり、その数か月後に、その男性に澪がコーヒー牛乳を渡す場面が僕としては印象に残る場面のひとつである。

この映画は、答えを明確にしていない。印象的なセリフは多くあるが、その意味は映画をみたヒトに委ねられている。分かりにくいと言えばそれまでなのであるが、いつかは終わりがあることを強く感じるとともに、その終わりは次の始まりに繋がっていることを感じる映画であった。

町もヒトも変わっていく

その中で、変わらないものは、誰かにかけてもらった温かい気持ちのこもった言葉であったり、思い出だったりする。いつかは終わるこの物語の中で、変わらないものをこれからのヒトにどの位残すことが出来るのだろう。終わりはどんなものにでもある。だからこそ、その終わりをどのようにするのかが大切であることを語りかける映画であった。