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わたしはうまく本を読むことができない

 わたしはうまく本を読むことができません。それは忙しくて時間がないから、ということではありません。時間があっても、うまく本を読むことができないのです。

 なぜかといえば、どうやっても「集中」ができないからです。疲労が蓄積していなくても、周りが静かでも、集中力が続きません。文章を目で追っているはずなのに、頭の中に、関係のないことが浮かんでくるのです。

 例えば小説を読んでいるときに、物語を味わおうとしているのに、ふと、「この前こういう嫌なことがあった」という記憶が、勝手に思いだされてしまいます。すると、ふつふつと怒りがわいてきます。落ちこんだりします。それでも、目は文章を追っているのです。

 しかし、肝心な内容は頭に入ってきません。もう一度読み直すことになります。そうすると、なかなか物語が前に進んでいきません。ひどいときには、一文を読むために、十回は読み直さなければならないこともあります

 頭に浮かんでくるのは、嫌な記憶だけではありません。むかし観たテレビ番組の内容であったり、友人とした会話であったり、SNSで見た投稿のことであったり、様々です。

 これは、苦痛でしかたがありません。本を読むことが好きなのに、一冊を読みきるのにあまりに時間がかかります。一生のうちに読むことができる本は、そう多くないのではないかと思ってしまいます。

 ところで、わたしは大学院で研究をしていたことがあります。論文を書くために、たくさんの本を読む必要がありました。しかし、議論の内容とは関係のないことが、頭に浮かんでくる「状態」が、頻繁にありました。一冊の研究書を通読するのに、周りの院生より多くの時間を要しました。

 しかし、本を読まないと論文を書くことができないので、睡眠時間を削りに削り、食事をするのさえ我慢しました。三十時間くらい起きていることもあれば、一日一食が続くこともありました。そうした「努力」もあり、なんとか修士論文を提出することができました。

 本をうまく読むことができないというのは、いまでもわたしのコンプレックスであり、大きな悩みの種です。たくさん読みたい本があります。ある程度、読書の時間を作ることもできています。しかし、一時間に二十ページしか進まないということは、度々あります。

 それなのにわたしは、いままで、いくつも本の感想文を書いてきました。そのことには理由があります。ポジティヴな理由です。そして、こうした「状態」と付き合っていくコツにも直結しています。

 わたしは短篇小説を何冊も買って、そのときの気分によって一篇を選び、読むことにしています。それでも、一篇を読み切るには、それなりに時間がかかります。しかし、物語を「味わいきる」感覚というものを、長篇小説より早く得ることができる、という長所があります。

 その「味わいきる」という感覚は、なにより自信になります。「なんだ、わたしにだって読書ができるじゃないか」という気持ちになるのです。そしてその積み重ねが、一冊の本を読み切ることに繋がっていきます。

 やはり、本を読むのが好きだという気持ちが、「なんとかして読書を楽しんでやろう」という、工夫を生み出す原動力になっているのだと思います。だれかと読書量を競っているわけでもないので、これは自分との闘いみたいなところがあります。

 こうした「状態」に苦しんでいたとしても、本を読みたいという強い気持ちがあれば、大丈夫です。自分にぴったりの読書の方法が、必ずあります。

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