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操作的な基準としての内観報告

【気づきのない行動と、気づきのある行動が存在する。気づきのある行動は、被験者の内観報告を基礎に判断する。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))】

「操作的な基準としての内観報告
 内観報告についてはすでに論じました。この原則から敷衍される重要な原則は以下の通りです。確かな内観的報告なしで成立するようなものは、それがいかなる行動上の証拠であっても、主観的な意識経験の指標とはみなしません。行為の目的に向う性質ががどうであれ、また認知的で抽象的な問題解決プロセスがどれほど複雑になろうとも、このことに変わりはありません。どちらの場合においても、被験者が気づくことなく、無意識になされることがあり得るし、実際にしばしば見られます。また、信号を検出する能力と信号に気づく能力の違いについても、実験者はさらに注意深く区別しなければなりません。
 行動として現われた行為とは、観察可能な筋肉の活動と自律神経系の変化(たとえば心拍数、血圧、発汗など)を指します。内観的経験を指し示して《いない》、単に行動として現われた行為は、《主観的な》意識経験の正当な証拠とはなりません。内観的な経験を報告するという場合は普通、被験者は自分の個人的な経験についての質問に答えているのであり、実験者は被験者が質問を理解していることに私たちは確信を持っています。この前提なしに行われている、行動として現われた行為は実際、無意識に行なわれている可能性があるのです。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第1章 本書の問題意識,岩波書店(2005),p.19,下條信輔(訳))
(索引:内観,内観報告,気づきのない行動,気づきのある行動)

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