作品における表現の自由と個人の見解としての表現の自由

 昨日、ふとこんな記事を目にしました。

 私の銀河英雄伝説史はOVA版でほぼほぼ止まっておりまして、ノイエテーゼ版は1期までは見ました。2期以降見れていないのは、私の好きなプラットフォームで配信が為されていないからに尽きます。
 原作となる小説も読んでいません。皆殺しの田中芳樹の異名を持つ作者の作品は、ハッピーエンド原理主義の私と合わないと思っているので読めていないんです。

 なのでノイエテーゼ版の銀英伝がどのように表現されているのかについては若干の不透明さはあるものの、ちょっと気になった箇所をつまみながら、この事象の問題点を私なりにいくつか整理して考えてみたいと思います。


銀河英雄伝説とは

 銀河英雄伝説の歴史というのは、簡単に話せば宇宙進出を果たした人類が、おおまかに2つの陣営に別れて様々な主義主張をぶつからせた架空の世界の群像劇です。
 この他にも第三国となる国や、政治の場面。宗教問題なども絡んでくる為、単に戦争をしていますという単純なお話ではありません。

 通しで1回見た程度では到底理解が及ばない、それほど緻密に作り込まれた80~90年代アニメーションの傑作といって差し支えないでしょう。

 また別名銀河声優伝説とも呼ばれ、兼役がほとんど存在せずに多種多様な声優陣が集結している事でも知られている、オタクの大好物みたいな作品です。

作者が答えを提示しないからこそ、視聴者の数だけ答えがある。

 思うに田中芳樹先生という方の作る作品には、私は強い主義主張は無いと思っています。強いというのは、ここでは「固執した」とか「徹底した」という意味合いを込めています。あるいは全てが強いのかもしれませんが、何が言いたいのかというと、バランス感覚が優れているのです。

 例えば作中では専制君主制と民主共和主義の対立が描かれています。その対立構造を表すうえで大切な台詞のひとつとして以下があります。

私は最悪の民主政治でも最良の専制政治にまさると思っている。こいつは中々立派な信念だと思うがね

銀河英雄伝説 ヤン・ウェンリー

 というものがあります。
これを読んだ時、あなたはどう思いましたか?」と問われても、この台詞だけでは答えなんて出るわけないんですよね。
 だってこの発言をしたヤン・ウェンリーという人間がどういう思想を持ち、どちら側の陣営に立ってこの言葉を放っているのかが分からないんですから。

 ヤンという人物はこの考えに対して、どれだけの大人物が出てこようともその命が未来永劫続くわけではない。世継ぎの問題が出てくる中で、世襲制なのか能力に応じて統治が為されるのかは不明だが、いずれ腐敗が生じてしまう。というような事を、彼が本来志していた歴史家的な側面から、経験則として語るリアリストです。
 また一方で、どれだけ腐りきってしまおうとも、その人物を選出したのは自分達国民であるという自己責任論を取れるのが民主共和主義の良いところであると捉え、民主主義に対して思い入れの深いロマンチストとしての側面も持ち合わせています。
 だから自身で「矛盾の人」などと表現をするわけです。

 と、銀英伝について一人一人語っていたらキリがないのです。何が言いたいかといえば、とにかくそうした1人の人物を描くにしても一方通行的な描き方をしないのが田中先生のバランス感覚の良さだと私は思うのです。

 対立軸のもう一人の主人公であるラインハルトにも似た事が言えて、彼は彼なりに専制君主制の欠陥と民主共和主義の欠陥を見抜いています。見抜いた上で自身がトップに立つ限り腐敗は許さないという強い意志の元で行動を取れる大人物でしたし、それこそ世継ぎ問題にも言及しており、「我が子に能力なしと見なされれば、喜んで他者にその地位を禅譲する」という固い意志がありました。
 が、ここでの問題点は彼個人の考えと彼の家族や側近達の考えとが、必ずしも一致しないという点にあります。それは結果として派閥を生み、能力至上主義と血統主義とで世継ぎ問題にいずれ分水嶺が訪れる事を示唆しています。

 何度も言いますが、田中先生の素晴らしさはこのバランス感覚にあります。信念の人を書くにも揺らぎを入れ、大人物を描くにもどこか人として欠落している部分もしっかり描写する。
 それこそが氏の真骨頂であり、本作が誕生して今もなお現行コンテンツとして成功を収めると共に、根強いファンを定着させ続けている手腕だと思うのです。
 作者が明確に「こうだ!」と描く作品は、作者のインタビュー記事でも見て答えを知ればいいんです。でも作者自身が答えを明示しない、あるいは氏自身もその答えを知らない作品というものは、人の数だけ答えがあるものなのだと私はそう思うのです。

それを踏まえた上で

 当該記事の話題に戻りますが、この記事の問題点はいくつかあると私は思っています。

炎上した当人が語り手となってしまっている

 それこそ受け取り方は人それぞれではあるんですけど、炎上した騒動に対して、当人にしか語れない事もあれば、第三者だから語れる事もあると思うんですね。
 で、今回のこの記事は別に後者でも成立し得たと思うのです。あるいはインタビュー形式にするとかね。
 そうすればもう少し記事を読んだ時の受け方も違ったのかなと感じます。

 当人が当時の炎上騒動を語るのは、どうにも言い訳がましさが残っているのと、被害者意識が強すぎると感じてしまうのです。

 冒頭の記事の続きの文章がコチラですが、書いてある事は真っ当だと思いつつも、オチも含めてどうにも弱さを感じるのです。

 本を売るためのマーケティング手法だとは思うのですが、記事としては面白さが突き抜けていないので、結果として本を買ってまで続きを読みたいとは私は思えなかったです。

表現の自由について

 表現の自由については、私は氏の書き記していた事に概ね同意できました。
 それこそ「社会学者風情が表現を侵害しようとしている」「規制の方向へバイアスをかける扇動者だ」という汚名を着せられた事については、残念でなりません。

 表現の自由を強く語るべきオタク達は、務めて冷静に言葉を選ばねばならないのです。
 ここでいう強くというのには、先程も述べた通り「固執した」とか「信念」という言葉に置き換えてもいいものです。

 表現の自由を守るという行為を行うのだとするのならば、氏の発言に対して、「銀河英雄伝説というものはですね・・・」と対話する形で入らねばならなかったハズで、汚く表面上だけ強い言葉を使っていいはずがないのです。
 これはそれこそ、氏が記事で書いている社会学者ではないのに社会学の書籍一覧に名を連ねているお歴々の方々の影響をたぶんに大きく受けてしまった、インターネットの負の側面だと思います。

 まして人格否定や氏の過去作を読まずに否定するようなレビューを書くというのは、実に短絡的で表現の自由とは程遠いテロリズムです。
 我々銀英伝オタクが愛して止まない不敗の魔術師、ヤン・ウェンリーが最も忌避嫌悪したテロリズムという浅ましい行為だと私は思います。

SNSは自由に発言して良い場所

 それこそ作品の表現の自由を声高に主張し、それを守らんとする立場で発言をする側なのだとしたら、氏の意見にも耳を傾けるべきです。

 ノイエテーゼが作られた時も、どなたか忘れましたが、著名な人物が発言していたと思います。

 リメイク作が気に入らんという気持ちは分かるけども、気に入らんのなら君たちにはOVA版があるだろう?そちらを見ればええやないの。

 だからオスカー・フォン・ロイエンタールがTSした銀英伝があったって良いかもしれないし、アレックス・キャゼルヌが家事育児全般をこなした銀英伝があったっていいのかもしれない。そう妄想するだけでも、少し面白い世界が広がりませんか?

とはいえ

 氏はジェンダーに関する発言で表現の自由を規制する人間だと断罪され、パブリックエネミーと化してしまったという見解をお持ちのようです。

 確かに「戦術指揮する提督や艦長という立場の人物に女性がいない」というのは、80年代という時代背景を踏まえてもなるほど1人もいないのは珍しいなとは今回の記事を読んで私も思いました。だってもうハマーン様とかいた時代ですしね。
 性質上帝国側にいないまでも、自由惑星同盟にもいないのは、確かに歪といわれれば歪だと思う。

 しかしながら「家事」に限定してジェンダーを語ってしまったのが、今回の記事も含めて良くなかった部分だと私は思います。私は銀英伝に出てくる女性は皆がそれぞれ、非常に強く魅力的に描かれていると思うのです。

「イゼルローンで最も強いものは誰か?」という問いに対し、

・ヤン・ウェンリーと答えるようではまだまだお子ちゃまユリアン・ミンツ
・シェーンコップと答えるのではまだまだ不良中年

イゼルローンの魔女ことオルタンス・キャゼルヌと答えてこそ、銀英伝ファンですよ



 同様に帝国最強もアンネローゼ・フォン・グリューネワルトでしょ。

 男性性を男性性として描きすぎ、女性性を女性性として描きすぎと言われればまだ少しは納得できたのかなと、そう思います。

 以上、最も好きなキャラクターはビュコック提督な30代おじさんの一意見でした。

 民主主義に乾杯

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?