差別と笑いの境界線③ 表現の自由について

表現の自由とは、思想、信条、意見、感情等を自由に表現するための権利です。基本的人権のひとつとして憲法で保証されており、とても重要な権利だとされております。その理由として、表現の自由は、民主主義を支える重要な人権であると考えられているからです。民主主義とは、「国民一人一人が主権者であり、自由に討論し、自由に意見を表明することで、公平に民衆の意見を取り入れる政治のあり方」のことです。

表現の自由が規制された場合、民主主義が機能しない社会となってしまう可能性があります。歴史的に、国家や権力者から、言論弾圧、情報統制など、国民の表現の自由や知る権利が侵害されてきました。表現の自由は、そのような強い国家から人権を守るために必要な権利なのです。


日本国憲法では、表現の自由について次のよう定められております。「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない」これは日本国憲法第二十一条によって規定されている条文です。日本国憲法は、国民の権利や自由を保証するために、国家権力を制限するために定められております。この条文を見る限りでは、表現の自由の権利はとても寛容なように思われます。

また、世界人権宣言の第十九条では、「すべて人は、意見及び表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む」と規定されております。世界人権宣言は、基本的人権の尊重の原則に基づいて定められているものです。同様に主張の一致が見受けられます。私たちには、共通して自由に発言する権利や、また意見を交換する権利があります。それは、国家から制約も強制もされず、自由に物事を考え、自由に行動できる権利が保証されているからです。

表現の自由がなぜ重要とされているかは前述した通りですが、それは、国家や権力から、不当な制限や抑圧を受けやすいとされているからです。そのような理由から、表現の自由は民主主義や基本的人権の根幹をなすものであり、自由に発言し、自由に議論できるために守られる必要があるのです。


表現の自由の限界

他方、表現の自由にも限界があり、あらゆる表現が許されているわけではありません。その点について日本国憲法では、次のように記されております。「但し、法が保障する自由は、無制約な決定の可能性を認めるものではない。公共の福祉を侵害したり、他者の自由を侵害する表現の自由は認められていない」表現の自由は尊重されるべきであるが、他者の人権を侵害してまで認められてはいないということです。そこで重要とされているのが公共の福祉という考え方です。公共の福祉の役割は、人権が対立した場合に、双方の人権を調節し、その共存を可能にするための基準として設けられております。たとえば、表現の自由が保証されているからと言って、他人のプライバシーを侵害してはいけません。そのような二つの権利が対立する場合に、公共の福祉による制約が必要とされております。

哲学者で経済学者でもあるジョンステュワート・ミルは、著書の中で、「人間が不完全な存在であるかぎり、さまざまの意見があることは有益である。同様に、さまざまの生活スタイルが試みられることも有益である。他人の害にならないかぎり、さまざまの性格の人間が最大限に自己表現できるとよい」と表現の自由に対して寛容な態度で説明しております。しかし、「個人の自由には限度というものがある。つまり、他人に迷惑をかけてはならない」と言及しております。

「他者を侵害しない限り、あらゆる自由は保証される」ということですが、この場合の他者への侵害とはどういうことでしょうか。一般的に想定されているのは、名誉毀損、プライバシーの侵害、性表現、著作権に関する問題、ヘイトスピーチなど。それは、個人の人権を侵害するようなあらゆる行為が該当します。ようするに、他の人権と衝突する場合、一定の制限を受けざるを得ないということになります。

しかし、差別的な営みを明確に定義づけられないように、他者への侵害という行為自体も定義づけることは困難なように思います。そのため仮にラインを設けるのであれば、法に触れているか否かという判断基準でしかないでしょう。公共の福祉に反するような表現であったとしても、法的に根拠がない限り、それを規制することはできないからです。

しかし、法に触れなければ、何をしてもいいかと言われればそうではありません。前述したAマッソの差別的な表現が、各方面からバッシングされたように、法に触れていない場合でさえ、悪質な表現や言論は規制すべきだという意見も存在します。それは一部の人の批判であったとしても、人々が不快に感じる場合があるからです。

そのため、そのような表現は自主的に規制すべきだという主張があります。つまり、法的に規制はされていないが、表現者自身が規制すべきか否か、判断する必要に迫られているということです。


表現の自主規制について

他者を侵害しない限りあらゆる表現の自由は保証されておりますが、法に触れていない表現でさえ、内容次第では規制すべきだという意見があります。現在、差別的な言葉をメディアで使うことは以前と比して明らかに難しくなっているように思いますが、それらは法的に規制されているのではなく、メディア側が放送倫理規定に従って放送すべきかを判断しているのです。つまり、メディア側の自主的な規制によって、そのような言葉を使うことを自粛しているということです。それは広告を提供する側への配慮と考えられますが、視聴者がその表現に対して不快だと判断した場合、メディアに直接理不尽なクレームを行ったり、ネットやSNSを利用し、悪質な投稿をすることで、広告側が損害を被る可能性があるからです。

少し過剰ではないかと感じられることもあるのですが、社会的な動向として差別的な表現を是正し、撤廃しようとする正義感のようなものが横行しているように感じられます。脳科学者の中野信子は、そのような状態に陥っている人を、正義中毒という言葉で呼んでおります。正義中毒の人は、自分と異なる意見を持つ人や理解できない言動をする人に対して、自分の意見を絶対的に正しいという立場で主張したり、相手に対して自らの正義を強要するようになります。リアルな世界ではあまりそのような機会に遭遇することは稀ですが、インターネットやSNS上では、そのような正義を目にする機会は誰しもがあるでしょう。社会を良くしたいという気持ちは理解できますが、それが行き過ぎてしまうと窮屈な社会となり、表現の自由を制限してしまうことになりかねないのです。


今年六月、映画『風と共に去りぬ』が、黒人に対する奴隷制を肯定させるような描写を含んでいるということで、一部の動画配信サービスで配信を一時的に停止しました。以前から指摘されてはおりましたが、アメリカでジョージ・フロイド氏が警察官の不当な扱いによる殺害事件があり、ミネソタ州やアメリカ全土で抗議活動が広がったことが影響し、それを受けて踏み切った結果だと思われます。『風と共に去りぬ』には、人種差別や奴隷制を肯定させるような描写がたしかに存在します。受け取り方によっては、差別を助長させる可能性もあるでしょう。しかし、古典的な映画や文学には時代を写す鏡としての機能があり、差別の歴史を学ぶ機会でもあります。それは差別と向き合うことであり、理解を深めるチャンスでもあります。差別用語や差別的な表現を規制する意図は理解できますが、行き過ぎた規制は差別を学ぶ機会を奪い、それはそれで危惧すべきことだと思われます。

現在、作品内に意図的ではないにせよ、差別的な表現が含まれている場合、小説、ドラマ、映画などのフィクションの中でさえ、テロップや巻末の後書きで差別に対するものではないことを明記する必要があります。差別を助長する内容ではないと明らかに判断できる場合でさえ、表現者や関係者は慎重に判断せざるおえない現状にあるのです。社会学者の好井裕明は、その点について次のように説明しております。

差別的な意味合いが込められた表現を、当時の常識が生きているで自然に使うことと今あえて使うことはまったく異質であるし、言葉の使われ方は、作品の時代性や芸術性、文化性とは密接に関連しており、両者はけっして無関係ではない。ただこうした注意書きは、私たちが日常生きていくうえで、差別的な表現や言葉の使用が時代を経るなかで、確実に変遷してきていることを十分に自覚したうえで、当該の作品と向き合うべきだということを確認しているのだろう

好井は、差別的な意味合いが込められていたとしても、その表現自体が当たり前のように使われていた事実を知り、それに対する意味や意義を見出す機会も必要だと主張しております。そして、差別的な営みを知り、個人個人が考えていくことが重要だと指摘しております。

併せて、着目したいのは、手塚治虫の表現の自由に対する考え方です。手塚は、著書「手塚治虫のマンガの描き方」の中で、表現者にとって圧力による言論の弾圧に対してとても危惧しており、表現の自由は当然尊重される必要があると主張されておりますが、同様に、人権侵害だけは絶対にやってはならない説明しております。同書で次のように明言されております。

それは、基本的人権だ。どんなに痛烈な、どぎつい問題をマンガで訴えてもいいのだが、基本的人権だけは、断じて茶化してはならない。それは、戦争や災害の犠牲者をからかうようなこと。特定の職業を見くだすようなこと。民族や、国民、そして大衆をばかにするようなこと。この三つだけは、どんな場合にどんなマンガを描こうと、必ず守ってもらいたい。これは、プロと、アマチュアと、はじめてマンガを描く人とを問わずである。これをおかすようなマンガがもしあったときは、描き手側からも、読者からも、注意しあうようにしたいものです

手塚は、人権を侵害するような表現はするべきでないと指摘しつつ、表現者自身も気づかないうちにそのような表現をしてしまう恐れがあるため、関係者や読者が指摘し合うことが重要だと説明しております。個人でそれが差別的な表現か否を判断するのは、どうしても限界があるでしょう。しかし、読者や受容者が、差別的な表現と対峙し、議論を深めていくことで、双方の差別に対する認識自体が更新することにもなるのです。手塚の作品の中では、少なからず差別的表現や描写が至る所に散見されますが、手塚はそれ自体を読者に投げかけることで、問題提起として機能した側面もあるのだと思われます。

双方の主張で共通しているのは、読者自体にその判断を委ねていることです。それはそれ自体が差別的な表現か否かは、客観的に判断することが難しため、個人個人の裁量に任せるしかないという立場だと思われます。その表現行為が法に触れていない場合でも、社会やそれを受容する人々がそれ自体をどのように判断するかは定かではありません。それは、原因や動機自体が、すべて受けての解釈に委ねられているため、表現者の意図に関係なく、それ自体が判断されてしまうからです。そのため、同じ表現でも、時代やそれを受容する人々によって、許される場合があれば、許されない場合もあるのです。

しかし、少なからず、表現者には、表現行為対する責任が伴います。そのため、社会情勢を観察し、事前にどのような受け取り方をされるかは想定し、細心の注意を払った上で表現する必要があるのです。受容者の受け取り方は千差万別であり、出たとこ勝負ということは否めないですが、受容者を信頼し、表現していくしかないのだと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?