尼僧の懺悔4


男と寝て、罪悪感はなかったのかと言われれば、それは確かにあった。
どう方便を回しても、破戒である。

しかし、この業界の大概の男僧はキャバクラにもいけば風俗にも行く。
ごく一部の高僧を除けば、彼らは結婚して家庭をもって、寺院経営を維持するために子孫を残していく。
出家の結婚は親鸞上人における大革命で、明治には多宗派で認められるに至っていた。
しかし「寺庭」や「大黒」「坊守」「お庫裏さん」などといった“和尚の妻”を表す言葉が各宗派に古くから存在するところを見ると、男僧はずいぶん昔から妻帯していた。
故に、男子たるもの多少の女遊びもそれは黙認されてきた。下手に素人に手を付けるくらいなら、水商売の店へ行ったほうがいいという理屈で、修行中でも風俗に行く話はよく聞く。

反対に、尼僧の結婚を禁じる法はない。宗法の上では平等である。絶対数が少ないため、整備されてないといったほうがいいのかもしれない。
寺の娘で跡継ぎとして近年結婚する尼僧がいるが、歴史からいえばレアケースである。尼僧が結婚するなんて、と陰で揶揄する同業者は多い。

大学でフェミニズムと男女平等の風に当たって生きてきた私にとって、男はいいのに女はダメという理屈は、男性優位社会の弊害でしかなかった。

出家はイメージ商売である。故に男と同じスタイルで遊ぶのは先達や同業者に対する迷惑行為で営業妨害になると理解できる。品位も損なう。
しかし、職場恋愛でもないし、関係者でもない。遠距離恋愛で部外者の彼氏の一人くらい問題なかろうと私は本気で考えていた。

人を好きになる気持ちはごく自然なもので、忌むべきものではないはず。
ならばなぜ、尼僧には許されないのか。
別に結婚させろなどと大それたことを言うのではない、男に許されているものを少しだけ望んでいるに過ぎない、というのが私の言い分だった。

それを正面から訊ねられる師があれば、もっと状況は変わっていたかもしれなかった。
しかし残念ながらすでに師匠との関係はそんなに良好なものではなかった。

一時ほど激しくはないものの、相変わらず師匠の病気は続いていて、まったく理解できない被害妄想に付き合わされることがしばしばあった。
夜中に不審者がいるから警察に通報しろと言われ、私自身はまったく何も見えないし聞こえないのに匿名で通報したりしていた。
間違っても色恋の疑問など聞けなかった。

出家の世界は師匠ありきの世界である。
その師匠が精神的に普通でないという事実は、遠からず自分の首を絞める、不都合な真実だった。
しかし、その不安から目を背けるように、私は私の世界を構築しようとしていた。
誰も頼れないからこそ、私は強くならなければいけなかった。
それには、素の自分を受け入れてくれる誰かが絶対に必要だった。

体という最強の切り札で、よき理解者である出家の彼をつなぎとめた私は、
その後も数か月に一度、逢瀬を重ねることになる。
それはかつてしていた、キラキラしたプラトニックな恋愛ではなかった。
外連味たっぷりのシナリオで愛欲をコーティングしただけの、つまりは遊びだった。

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