占星術だのやってるけどスピ系が苦手つか嫌い。
スピリチュアルってなんだろう。
私が学んでいる西洋占星術もタロットも、精神世界のものだ。
もっと言えばオカルトだ。
しかし、自分がそれらを学ぶようになって、そこには「材料」と「仕組み」があることが判った。いわば足し算引き算掛け算割り算と同じようなロジックがあり、それを「知識」と「経験」をもとに組み立てていく。
その「材料」がそもそも怪しいと言われたらそこまでだが、天文学と占星術が同じ「古代星学」のBCE300年から積み重ねられてきた叡智、1800年代の有識者たちが研究した神秘主義は、私が思っていた以上に「型」が有りロジカルだった。だからこそ母体をもとに様々な本が出版され今に受け継がれている。
学ぶということは
「自分が知らない事を知る」ことだ。
これは知識を入れるということではない。
つまり、知れば知るほど
「自分は知らない」という「無知の知」
を知るということになる。
しかし、私が時々出会う「スピリチュアル」で「見えない力に導かれている」人々は逆に「全てを知っている」とのたまい匂わす。
「導かれて来た」
おまめちゃぐぐってるだろ
「使命を探してるんです」
生きろ
「この地球では生きづらい」
出たことあるのか
「引き寄せちゃいました」
違う、お前が来たんだ
彼らの万能感はどこから来るのだろう?
もちろんそれは一方的な言葉だとは思うが、その思考回路が謎過ぎる。彼らだって何かを学んでこのスピリチュアルな世界に足を踏み入れたはずなのだ。
自分は知らないから、自ずと謙虚になる。
知らないことを知り世界の雄大さを知る。
知識の前に首を垂れる。
この過程が彼らには無いのだろうか。。。
知らないを知らない彼らの罪は深い。
なぜ私が言い切るか?
現実で迷惑しているからである。
<font size = 42 >の勢いで。
さて何のオチもないこの雑文、〆にユダヤ人哲学者であり、イスラエル建国に多大な貢献をしたマルティン・ブーバーの記事を引用する。
神秘主義には圧倒的な高揚感を伴う忘我の状態がある。神との一体感をもたらすこの体験を、彼自身、何度も体験した。だが、彼は最終的に、この神秘体験を永続的に放棄するという決意に達した。神秘主義を否定したのではない。ただ本当のスピリチュアリティとは、快い忘我にたどりつくことではなく、目の前にある現実といかに関係性を築いていくか、ということだという結論に達したのだ。 以後、彼は生涯にわたって、「狭い尾根の両側には深淵があり、その上を歩き続ける」ことを選んだ。
とはいえ、私も目に見えない何かは有ると思う。
今日も毎日聴いている服飾系ラジオを聴いていたところ偶然に「無知の知」のフレーズが出てきて、何か繋がっているものがあるんだなあと思った次第。
青森は紅葉もそろそろ終わりです。
それではまた。
つちのと
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