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長野県出身の軍人 太平洋戦争を生き残った病院船「氷川丸」初代院長の金井泉・海軍軍医少将

 病院船は、戦時下に傷病兵や民間人を安全な場所へ運んだりけが人らを治療したりする船で、どの国も攻撃してはいけない船でした。しかし、太平洋戦争では陸軍が徴用し改装した病院船が米軍機の爆撃を受けて沈没(ぶゑのすあいれす丸)したり、海軍で徴用した氷川丸も機雷で被害を受けるなどしていて、赤十字の標識を何カ所にもつけてあっても、決して安全ではなかったのです。
 (また、これを逆手にとって軍需関連の品を運ぶような違法行為が行われることもありました)
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 その氷川丸は、日本郵船が政府の優秀船舶建造助成金を受けて建造した高速貨客船で12000トン、18ノットの速力を出せました。1940(昭和15)年5月に処女航海を行い、日本と米国・シアトルを結ぶ航路で活動しました。

貨客船当時の氷川丸模型

しかし、それから間もない1941(昭和16)年11月、海軍に徴用され、12月に病院船への改造を行って太平洋戦争開戦後の1941年12月21日に完成して、病院長として長野県松本市出身の金井泉軍医大佐が乗船しました。船員も徴用されて軍属となっていたため、艦長は別でした。病院業務は海軍が担当し、こちらは全員軍人が当たっています。

病院船氷川丸模型。赤十字が各所にあるが、誤認されて攻撃を受けることはあった
塗装や赤十字で大きく印象が変わった氷川丸模型

 さて、金井泉軍医大佐の経歴ですが、1896(明治29)年生まれで、新潟医学専門学校を卒業。臨床検査法を比較実験したデータを「臨床検査法提要」としてまとめ、1941(昭和16)年6月に金原書店より出版し、広く用いられます。この本は新たな知見を加えて現在まで、利用されています。この功績によって、1969(昭和44)年、日本医師会最高優功章を受章しています。
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 本の出版について、初版の「発刊の経緯」から紹介しますと「昭和10年ころは臨床検査を専攻するような学者はきわめて少なく、また臨床検査全般に渡り、機能検査も含めてまとめた成書は見当たらなかった。したがって患者診療にあたって、適正な検査法に通暁していくことは、新入医局員や実地医家にとって容易な業ではなかった。著者(金井泉軍医大佐)はこのことを痛感し、各種の検査法を比較実験し、良法を整理して一見実施しやすいように摘録収集し、昭和8年以来、これらのメモをプリントし『生物学的臨床検査診断法』として海軍軍医学校の経典として使用してきたが、昭和16年、金原書店から懇望され『臨床検査法提要』として公にしたー」(信州医誌2013年より)
 よく、戦前の医師の腕前が問題になりますが、つまり診断方法がまとまっていなかったのですね。それを金井大佐がまとめたことになります。戦後も金井少将とご子息が監修しつつ、改定を重ねてきて「臨床検査のバイブル」と言われるほどになり、先の受章となったわけです。
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貨客船時代と病院船時代の氷川丸模型

 金井大佐は1942(昭和17)年11月ごろまで氷川丸に乗船していたとみられます。その後海軍軍医学校教官となり、1945(昭和20)年2月5日同教頭、戸塚海軍病院長、4月1日に初代の戸塚海軍衛生学校長を歴任。敗戦を挟んで10月22日、横須賀鎮守府軍医長を経て予備役(最終階級・少将)になっています。
 また、1945年9月14日に設けられた「原子爆弾災害調査研究特別委員会」の医学科会委員11人の1人にも選ばれています。1992年12月26日、96歳で亡くなられました。
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 さて、氷川丸ですが、機雷に接触するなど危うい場面もあったものの、敗戦まで病院船としての任務を果たし、戦後は引き揚げ病院船として活躍します。引き揚げ者には負傷者も多かったので、設備の整った氷川丸は重宝されたことでしょう。1947(昭和22)年に病院が解散し、元の貨客船に戻って1949年から不定期航路で本来の業務に従事。1950年に日本郵船に返還され、1960年に引退したあとは観光船となり、現在も横浜の山下公園桟橋でその姿を見て、艦内を楽しむことができます。その際には、こんな信州人もかかわっていたこと、少し思い出してみてください。(金井氏の写真を入手できず、お詫び申し上げます)

貨客船当時の姿の模型。公園から、こんな感じに見えるでしょう。

 

 

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