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戦時下にバス停が一気に増設。その理由が「燃料節約」

 「ガソリンの制限で自動車業者大狼狽」と見出しを付けた記事が、1938(昭和13)年4月28日付信濃毎日新聞朝刊に掲載されました。日中戦争に絡んで5月1日から始まる初めての石油配給切符制(第2次石油消費規制)を前に、長野県上田市を中心とした交通各社の混乱ぶりを紹介しています。写真は 配給制度開始前日の信濃毎日新聞夕刊(1938年5月1日付4月30日発行)で、長野市を中心とした状況を「さあ停留所も出現 バック、たちまち10銭 あすから足の異変」と記事にしています。

 1938(昭和13)年4月28日付信濃毎日新聞朝刊記事を、著作権切れを受け転載しますと、以下のようです。適宜休字を手直しし句読点を補助しました。(以下転載)
 「ガソリン国策に伴って上田市を起点とするバス網は来る1日から一斉に停留所を設置、冗費節約を厳守することになったが、去る24日上小自動車業者に交付されたガソリン切符バス3分の1以上、ハイヤー約半数、トラック約半分の使用制限に対して業者はこれが対策に腐心している。即ちハイヤー、トラックは1日から一斉料金1割値上げを断行する一方、夜間運転に対する値上げ方針も協議中で、バスは停留所設置のほか会社によっては発車回数を制限し極力ガソリン消費を防ぎ収入源防止に腐心しているが、トラック業者のごときは東京往復1台が1か月5回に急制限されたわけで、専業者のショックは予想以上大きい模様である」(転載ここまで)

 ここで「停留所設置」になぜ、と思われた方も多いでしょうが、主なところを除き、それまでは各バスとも、路線上であれば客が手を挙げれば止まって乗せていたのですね。「昔のバスは手を上げたら止まってくれた」というお年寄りの回想は、このころまでの実体験です。では、なぜ停留所にしたのか。それは、バスの停車発車を繰り返すと燃料消費がかさむから…。本当に涙ぐましいことです。

 ちなみに、石油配給切符制度の根拠法は1938(昭和13)年3月7日付けの商工省令「揮発油及重油販売取締規則」。そして商工省がこんな強力な命令を、議会を通さず出せるのは、日中戦争勃発間もなくの1937(昭和12)年9月10日に交付施行された「輸出入品等に関する臨時措置に関する件」という法律があるからでして、政府が「支那事変(日中戦争)」に関連して需給調整を必要とするものは、制限など必要な命令ができるというもの。 
 石油配給制度も、その法律に基づいた命令の一つとなります。軍需に必要といえば民間で利用するものを何でも規制できるという、とんでもない内容ですが、戦争となると、この程度のものはさっと通ってしまい、あとは政府のなすがままです。

 配給制度開始前日の信濃毎日新聞夕刊(1938年5月1日付4月30日発行)の記事から、いくつか拾ってみますと…(以下転載)
 「…去る25日から今日まで県下一斉に交付された購買券を各業者は手にして『今更ふたを開けてびっくり』の態で、ある業者を叩いてみると、一日当たりガソリンの支給量は大体ハイヤー3ガロン(11・4リットル)、バスが5ガロン半(20・8リットル)、トラック6ガロン(22・7リットル)位の見当らしい。これじゃ従来の消費量に比較して5割方の激減と業者は悲鳴を上げている。従って従前通りの経営方法では月の前半は働いて後半は開店休業せにゃならんわけである。そこで対策を打診してみるといずれも名案が無くて困りぬいているが、長野のトラック屋さん方はあっさり5月1日から3割の値上げを決議、需要者に負担転嫁というわけ」
 「一方、長野市内の宇都宮、川中島の両バスは停留所の増設、毎10分発を20分発に変更、不経済線の廃止、減車の実施によって対処すべく許可申請書を提出するらしい。なお、遊覧バスも20銭を25銭に値上げといくそうだ。ハイヤーも値上げは必至とみられ、バックするごとに10銭あてお客様から申し受けることは早速実施するらしい(略)」(転載終了)。

 値上げや減便はなるほどと思いますが、ここで停留所増設です。そしてハイヤーは「ちょっと行き過ぎた! 戻って」とバックしてもらうと追加料金という、涙ぐましいというか、利用者には世知辛い話ばかり。

 信濃毎日新聞の1938年5月2日朝刊には、規制初日のさまざまが載っています。いくつか転載してみますと…(以下転載)
 「停留所乗降の第一日…県下一のバスコースの輻輳した更埴地方はあいにく日曜の行楽日和であったため、至る所乗客が大まごつき。いつもの通り勝手なところで手を挙げたがバスは意地悪くノーストップにあわててバスを追いかけるもの、我が家の前を素通りしたと不平を言って、反対にバスガールに『国策です』と叱られるもの、陳風景続出であった(略)」

 やはり、徹底されないですね。家の前で止まってくれてたなんて、うらやましい…

 「各所の機械油店頭にあるガソリンスタンドも今までのように腹いっぱい吸い込んで吐き出すこともできないと淋しそうだ。駅前のガソリンガールは『私たちには用が無くなった時代ですワ。今日は切符を持ってくる車が一台もありません』とあまりの暇に悲しそうに笑っている」

 関係ないけど「ガソリンガール」って、給油する看板娘でしょうね。

 「時代から置き忘れられた人力車は燃料いらずの唯一の運輸機関だけに、車賃では負けても自動車から落ちるお客を拾わんとし懸命。松本駅前に『吾時得たり』と昔に帰って人力車が勢ぞろいして待機している。しかしよほど国粋主義者でなければ今の中は振り向きもされない」
(´-ω-`)

 そしてハイヤーは「あまり遠いところはお断り」とか。まあ、早くも8月には長野県内で木炭バスが走り始め、翌年の1939(昭和14)年には長野県が木炭バスの使用を各社に割り当てるなど代用化が進みます。そして1941(昭和16)年には日中戦争の資源を南方に求める大本営の「対南方施策要項」、これを受けた大本営政府連絡懇談会による「南方施策促進に関する件」によって、7月に陸軍が南部仏印へ進駐します。その結果は、最大の石油輸入相手だった米国の日本への石油禁輸を招きます。この後の米国との交渉が決裂して太平洋戦争が始まるのはご存じの通り。
 1941年9月にはバス、タクシーなどのガソリン使用禁止、もちろん一般の乗用車もだめということに。そんな状態での新たな戦争への突入。戦争の泥沼化、石油禁輸などに翻弄され、中古車のエンジンが特攻兵器に転用される将来がやってくるのです。

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