20歳未満の未婚女性を除く全日本女性を会員とする「大日本婦人会」発足も、会報は2転3転…
日中戦争当時、有力な女性団体として、比較的上流階級の女性が参加している「愛国婦人会」と、陸軍が力を入れて各地で発足させた一般女性向けの「大日本国防婦人会」が2大勢力として存在し、ほかにも複数の女性団体がありました。しかし、1940(昭和15)年の大政翼賛会結成もあり、1941(っ昭和16)年6月、閣議決定(ここでも!)で各女性団体を連合して「大日本婦人会」を発足させることとなりました。発会式は太平洋戦争開戦後の1942(昭和17)年2月2日、東京九段の軍人会館で行われました。
中核となった大日本国防婦人会、愛国婦人会は、地方では役員が両方の会員を兼ねていて、両方のたすきをかけて活動することもしばしばでした。ここに大日本連合婦人会なども加わります。女性の参政権獲得を目指して活動していた市川房江らも、これに協力することで戦後の女性の立場の向上を期待していました。
手元にある大日本婦人会の会誌を追ってみますと、女性の主体性よりも、時局の都合に振り回された様子が見えてきます。創刊号は2月の発会から9か月後の1942(昭和17)年11月の発行となりました。サイズは愛国婦人会の会誌と同じ、題名は大日本国防婦人会会誌と同じで、両者のバランスを考慮したというのはうがちすぎでしょうか。
一般的な婦人雑誌の様態に合わせたといいますが、無表情な女性の表紙は、内閣情報局による主婦之友への「女性の顔に歯をみせるような笑みを持たせるな」を実践していたようです。
これが1943(昭和18)年6月、大日本国防婦人会のマークを表紙にしたA5判に変更されます。5月号の「編集室」では「本誌がほぼ現在までの如き体裁、編集で諸姉にお目見えするのは、本号が最後となろうと思う。用紙その他物資や労力や輸送などの国内情勢とその重点的決戦計画の関係であること言うまでもない」と実態を暴露しつつ「物資がないからだから致し方なく、これで当分我慢しましょうなどという消極的な言い草は私は嫌いである」「信念を持って次号以下の決戦編集に突入してゆく」と結んでいます。
そして6月号の編集室は「戦に勝つことが何より先決問題であり、従って勝つために必要とあれば何をおいても、是非しなければならない」と刷新断行の意義を訴え「米英撃滅戦はこれからだ」と強調します。
ちなみに、表紙の周囲の地は「婦人に親しい買い物袋の網目」を使用したとか、表紙裏を「日婦回覧板」として、強調する言葉を入れる改変をしています。こうして改変した「日本婦人」ですが、なぜか1943年12月号は発行されていません。
1月号の説明によりますと、物資不足により購読希望に添いかねているうえ、11月号すらも水害や事務上の手違いなどで行き渡っていないことから、(12月号を欠号とし=説明文には入っていません)、全国の支部ごとに1班1冊の配本に切り替えるとしています。実際、11月号の80ページに対して1月号は52ページに減っています。また、表紙には「班内回覧」と」新たに入りました。
そして1944年2月号は、表紙や裏表紙をよく見ると、既に印刷を終えていた1943年12月号の表紙をリサイクルするため、もともと号数や、裏表紙の国債の発行日を赤でもう一度刷りなおしています。表紙全体も赤っぽいのはそのためでしょう。
その後は収蔵していない分もありますので、変化がいつあったかは明確に示せませんが、1944(昭和19)年7月号の表紙は元の婦人雑誌風になる代わり、ページ数は32ページまで減っています。1945(昭和20)年1月号は、明らかに色の節約の影響が出ています。
1945年1月号の内容を見ますと、米国の重爆撃機に体当たり攻撃を観光する震天制空隊訪問や、飛行兵をたくさん出した女性の表彰などが載っていて、末期感が感じられます。
もはやページに余裕もなく、貯蓄のための長谷川町子の漫画が載っていたのも昔の話となりました。
1944(昭和19)年4月号では、女性にはこんなに役割があるとしていたのに、せめて会誌ぐらい、最優先で作ってやれなかったのか。ころころと変わる様子を見ていても、あくまで戦争の歯車として重要ということであり、銃後の道具的な、切ないものが感じられます。