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長野県出身の軍人・小池勇助軍医少佐(死後中佐)

 軍人といえば、戦場に出たて戦闘する姿をすぐ思い浮かべますが、ここで取り上げる小池勇助軍医少佐は、沖縄の第24師団山3487部隊小池隊(第二野戦病院=豊見城市の壕)の隊長として、病院の指揮をとっていました。米軍の沖縄本島上陸は1945(昭和20)年4月1日。そして小池少佐は沖縄戦の組織的抵抗が6月23日に終了すると、27日に野戦病院を解散させて6月28日、自決されました。
 私が小池中佐をなぜここで書き留めるか。それは、支援に来ていた学徒隊に「死ぬな」と命令して、ほぼ全員を生還させた方であったこと、あの時代、あの状況下で、そうやって学生に心配りができたこと、これを広く伝え、戦争の姿とその中にともっていた人間性を伝えたいからです。
 それともう一つ。わたしがこのエピソードを知ったのは、小池中佐の地元、野沢南高等学校の2001年度の2年生たちが、学習成果としてまとめた冊子であったこと。足元の記録を次世代の若者が調べて残したことに敬意を表したいためです。

沖縄修学旅行に合わせて作った「沖縄平和学習の記録」

 以下「沖縄平和学習の記録」によりますと、小池勇助軍医少佐は長野県佐久市野沢で1890(明治23)年7月25日に生まれ、旧制野沢中学校(現・野沢北高)を卒業、1914(大正3)年に金沢医学校を卒業し、金沢歩兵第7連隊に入営。陸軍軍医学校で眼科を専攻。予備役となって帝大で研究生活をしたのち、1928(昭和3)年、佐久市中込駅前で開業、眼科と内科の看板を掲げたということです。
 しかし、この間、出征は4回に及びます。最初はシベリア出兵で1918年ー1922年、日中戦争で1937(昭和12)年8月ー1940年1月、そして満州に1941(昭和16)年8月ー1943年1月。最後の沖縄には1944年8月に着任という、まさに戦場で半生を生きた方でした。沖縄に出向いた時には、既に54歳でした。
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 米軍の艦載機による空襲が始まった1945年3月23日、卒業間近の私立積徳高等女学校「ふじ学徒隊」25人が、小池軍医少佐の野戦病院に配属されました。「沖縄平和学習の記録」に寄せられた学徒隊の方の話を拾うと「軍服を着て日本刀を持ち、体はおおがらではなく、そして優しい思いやりのある人だった。隊長は『女学生の事を大切にしなくてはいけない』と部下に指示していました」と人柄を語っています。そして間もなく本島での戦闘が始まり「壕での仕事は、切断した手足を捨てたり、けが人の治療、ガーゼ洗い」に追われる日々。「医療具不足で傷口からはうじ虫がわいた。食事は1日1ー2回で運ぶのも大変だった。隊長は兵隊には厳しかった」と証言してくださっています。

「沖縄平和学習の記録」より

 病院は5月末、戦況悪化のため島尻地区糸洲の壕に移動します。そして沖縄の司令官も自決した後の6月27日夜、小池軍医少佐は積徳高等女学校4年生の学徒隊25人(ふじ学徒隊。黒ゆり部隊、とも)を集め「米軍は非戦闘員を殺したりしない。親許を探し膝下に戻って孝養を尽くしてもらいたい」「絶対に死んではいけない。生き残って必ずこの悲惨な戦争の事を後世の人達に伝えてくれ」と訓示し、保存食の鰹節と牛缶を渡し、一人ひとりと握手して別れました。
 一方、兵隊達には切り込みを指示していて、女学生達は「自分たちも戦う」と顔見知りの兵隊達に懇願しますが、小池小佐の指示があり、皆が生きるよう説得しました。彼女たちは小池小佐の思いをくんで壕を数人ずつで出ていきました。 最後の一段は翌日未明になります。小池中佐は治療用のアルコールを飲みながら学徒隊を送り出し、全員が出たあと、青酸カリで自決します。その5分後、米軍のタバコと食糧を拾った女学生が「隊長さんにあげたい」からと戻ってきましたが、間に合いませんでした。

 学徒隊25人は、米軍を避けるように移動するなどし、誤射されるなどして3人が亡くなりますが、22人が生還を果たします。女学生達に「生きろ」と明快な指示をして移動の注意まで与えた小池軍医の姿勢が、多くの女学生の命を救ったのです。
 ちなみに、他の学徒隊は何の注意も受けず、解散させられ壕の外に出されたのみで、時期的なこともあったでしょうが、半数近い戦死者を出しています。この小池少佐の行動は、その「なぜ」を追った石川県出身の野村岳也監督(故人)のドキュメンタリー「ふじ学徒隊」(2012年・48分)にもまとめられています。
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 当時の生徒たちも、もう40歳前後でしょう。その後の人生で、どんな学びを生かしているでしょうか。そんなことを思うと、小池少佐の「生きろ」という言葉は、ずっとつながっていくはずだと。
 ちなみに、生徒たちは長野県佐久地方の戦死者調べが調査の出発点でした。その成果も示しますと、戦没者数5736人、うち沖縄での戦死が小池少佐をはじめ136人とまとめています。身近で戦争を知る方法はまだまだあり、それを自ら学ぶことで、戦争を回避していく世の中をつくってほしい。そう願うばかりですし、わたしもそうでありたいと行動しています。

地道な戦没者調査「沖縄平和学習の記録」より

 追記・小池少佐とともに衛生兵一等兵として活動、生還された小木曽郁夫氏のことも紹介したいのですが、また、項を改めたいと思います。最後に、快くこの冊子をご寄贈いただいた担当の杉村修一さま、記事で間をつないでいただいた信濃毎日新聞の宮嶋記者に心より感謝いたします。

2024年6月22日 沖縄慰霊の日を前に

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