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これ以上間の悪い事もなかった戦時報道ーもっとも、間が悪かったと広く知られるのは戦後

 戦時下、庶民に戦況を伝えるため、写真を大きく使ったグラフ雑誌や写真特報が大いに活躍しました。躍動する軍隊の写真は、それだけで日本の力を強く印象付けます。こちらは国策会社の同盟通信社が毎月1回発行していた同盟写真特報の1ページです。

特徴的な艦首付近の構造から航空母艦「赤城」と分かる

 「この苦心にこそ生まれるのだ“見敵必滅” 戦の間に艦の手入れをする海のつはもの」のキャッチコピーを付けられたこの写真は、1942(昭和17)年5月下旬撮影の航空母艦赤城です。もちろん、艦名は書いてありませんが、飛行甲板を支える長大な柱の構造から、赤城と判断できます。写真は、真珠湾空襲、インド洋海戦などを経て、ミッドウェー作戦を前にその支柱を塗装する様子です。
 ちなみに裏面も、日本軍によって破壊された敵基地や擱座させられた輸送船などの写真が並び、まさに最高の境地にあったころを示す特報です。

無敵海鷲などの言葉が盛り上げ
持ち上げるだけ持ち上げた記事

 さて、この特報の発行日付は昭和17年6月6日…。2024年から見て82年前のきょうのことです。その前日、赤城は米軍急降下爆撃機の攻撃を受け、最後は日本時間の6月6日午前2時、味方駆逐艦の魚雷により自沈処分となった、まさにその日でした。海軍省許可第571号…。

発行日は昭和17年6月6日

 このころ、軍艦の写真は撮影からかなり時間がたったものしか許可されないような状況でしたが、これは発行に合わせて特別に直近の写真を掲載用に許可されたのでしょう。それぐらい勝ち戦が続いていた嬉しさが海軍内にあったとうかがえます。もちろん知る由もないことですが、なんという間の悪さ。ミッドウェー作戦では赤城のほか3隻の航空母艦が撃沈され、米軍が失った空母は航空攻撃と潜水艦のとどめによるヨークタウン1隻のみでした。しかし、この大敗北はひた隠しにされ、赤城など、こののち作られた海軍内部の艦隊編成表にも残されており、沈没の真相を隠していたほどでした。
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 さて、困ったのは大本営報道部。当時の様子を「大本営発表の真相史」から拾うと「来るはずになっている勝報のために、副官は早手回しに祝杯の用意をして、いつでも間に合うように待って居た。朝9時ごろ、作戦室に入った発表主務部員は、室内の空気が重苦しく、いつもの顔ぶれが一言も語らずに黙りこくっているのに気がついた。電報を繰ってみると、一時間ばかり前に来たばかりの電報の文句が目に入った。(略)『敵艦上機及び陸上機の攻撃を受け、加賀、蒼龍、赤城大火災。飛龍をして敵空母を攻撃せしめ、機動部隊は一応北方に退避、兵力を集結せんとす』誰も口をきかない理由が了解できた。」
 このあと、飛龍の敵空母攻撃中の電報が来たものの、次いで「飛龍に爆弾命中火災」「わが母艦は作戦可能なるもの皆無なり」と電報が続きます。さらに退避中の重巡洋艦三隈が沈没、最上が大破します。そんな状況下、発表の対策に3日3晩明け暮れます。最初は空母2隻喪失、1隻大破、1隻小破、巡洋艦1隻沈没の案が出ますが、すぐに作戦部の強硬な反対を受けて書き替えられます。そして発表をもとにした6月11日の読売新聞が以下の通りです。

主作戦がミッドウェーからアリューシャンにすり替わり
損害発表は空母1喪失、空母1,巡洋艦1大破、未帰還機35機

 航空機は全滅しているので、実際は322機。こちらも10分の1の発表です。敵空母2隻撃沈は意図的なものではなく、戦場での錯誤で、意識した過大なものではりませんでした。しかし、これ以後、大本営発表は被害の過少発表と戦果の過大発表の連続に陥り、台湾沖航空戦の大誤報を生んでしまいます。一方の米軍は、ミッドウェー海戦を勝利としつつも「彼らは引き下がっただけ」と引き締めています。こうした世論の操作を比較すれば、どちらがより信頼されるか、明らかでしょう。
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 ところで、赤城の写真に写っている水兵さんは、生き延びられたのでしょうか。過去、そして現在も進行中の戦争で亡くなられた、すべての人の冥福を祈り、また戦場にかかわるすべての国に対し停戦を望みつつ。

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