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国家総動員法で庶民は国の指示する職場に「徴用」されました。一方で「すり抜け」も。

 日中戦争が始まって間もない1938(昭和13)年4月に公布された国家総動員法には、政府が必要なときに帝国臣民を徴用して軍需産業などに強制的に従事させる勅令を定められるとなっていました。そしてこの条項に基づき昭1939(昭和14)年7月に公布・施行されたのが「国民徴用令」でした。徴用された人は、指定の期日から指定の場所で働かねばならず、徴用されている間は転職も許されませんでした。告知書が白い紙だったため、徴兵の「赤紙」に対し「白紙召集」と呼ばれました。

 こちらの表題写真は、長野県諏訪郡上諏訪町の女性が日本無線株式会社諏訪工場へ徴用されたときの「徴用告知書」です。この告知書は、既に日本無線で働いていた女性(臨時雇用か、勤労挺身隊か)を徴用したと見なす告知書ですが、仕様は同じで受領証が切り取られており、実際に本人の手に渡されたことが分かります。既に働いていたとはいえ、これ以後は転職できないし、収入も徴用の基準に沿ったものしか受け取れなくなります。
 政府は当初、女性の徴用を家制度との関連で避けていたものの、このころからは関係なく実施していました。また、最初は国内だけを対象としていましたが、朝鮮総督府が1944(昭和19)年2月8日から朝鮮半島に国民徴用令を適用して、まずは主要な工場鉱山で働いている人をこの女性と同様の「現員徴用」とし、その後一般徴用も実施しています。

 一般的に徴用は、それまでの仕事とは無関係で収入が減ることも多かったため敬遠された上、商売敵が徴用されたのを良いことに顧客を奪うといった輩も出てくる次第で、役場に徴用されないよう相談に行く人もいました。長野県丸子町の常会徹底事項には、徴用は厚生省で決めることで役場は関知していないとの説明が見られます。
 また、小売店の整理で配給所として残された店の経営者に徴用が来て混乱するといった事態もありました。一方で、上流階級や軍隊にコネがある場合などは、徴用から逃れるため、偽装的に名ばかりの事務員などに就職する女性もいました。
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 ところが、そんな徴用を太平洋戦争真っただ中の1943(昭和18)年、遊び息子の対策に利用しようとした人がいました。同年5月31日付信濃毎日新聞より、著作権切れを受け転載しました。ただ、新聞社も徴用のイメージアップを狙った提灯記事かもしれませんが(適宜、難しい字を現代字やひらがなに直しています。句読点とかっこも補いました)。

 ▼国民皆働の国策にも関わらず、いわゆる親泣かせの遊人が未だ全く姿を消したとはいえず、従来ならば親元から警察へ説諭願いを提出したところ、近頃は職業指導所へせがれの徴用願いを提出して来るものが時折あるが、
 ▼職業指導所としてはこれらを徴用したところで徴用工場の荷厄介になり工場の生産能率を低下せしめることにならぬとも限らぬのをおもんばかり、取締りの厳重な軍工場へでも徴用して練ることも考慮している。
 ▼たどたどしい字が書かれた親からのせがれ徴用願いの一例を見ると「せがれは35歳にもなりますが、嫁ももらわず昼は家の農業も手伝わずに寝ているだけで、夜になるとカフェーへ出かけて行き、何かして金が出るとどこかへ行ってしまい金がなくなるとまた戻ってくるような有様で
 ▼身が治まらず国民全体が働かねばならぬというとき近所に対して恥ずかしくもあり、また口惜しくもあります。どこかの工場へ徴用して一定の場所で働かせてもらうわけにはまいりませんでしょうか。お願いします」【小諸】
 戦時中だろうとなんだろうと、世の中の渦からするりと抜けたような人がいたんだなあと。しかも「一例」。何人もおったのか!
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 とはいえ、こうした遊び人も、ようしゃなく巻き込んでいける国民徴用令。ひとたび人権を規制する法律ができたなら、権力者は容赦なく個人を引っ張れる。それは戦後から80年近く経った、まさにそんな時代があったことを皆が忘れたとき、復活すると肝に銘じておきましょう。埼玉県の虐待防止条例騒動がいい例。権力者は、常に個人を絡めとろうとしていること、忘れてはいけない。それが権力者の延命策ですから。

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