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陸軍の所沢飛行学校を卒業、軍を辞めて初の民間人飛行士となったのは、長野県出身の長谷川清登でした

 長野県豊科村上鳥羽(現・安曇野市)に1896(明治29)年に生まれ、その後松本市の長谷川家の養子となった長谷川清登は、日本初の民間一等飛行士であり、彼の後援会が作った「笹部飛行場」は、これまた初の民間飛行場となり、日本航空界の黎明期を駆け抜けた人として記憶に値すると思います。

愛機・サルムソンの前に立つ長谷川飛行士。後援会が資金確保のため作った絵葉書

 長谷川飛行士は徴兵で1916(大正5)年、東京の近衛騎兵連隊に入営。陸軍の下士官から1920(大正9)年、所沢航空学校に第一期下士官臨時学生として入校。翌年秋に国内初の一等飛行機操縦士試験に合格して卒業後、教官として3年間、学校にとどまって後継の育成に取り組みます。
 1940(昭和15)年9月21日付信濃毎日新聞朝刊の記事によりますと、長谷川氏は米国人のアート・スミス飛行士が1917(大正6)年に松本で軽快な飛行を実演したのを見て以来「矢も楯もたまらぬ位飛行機が好きになってしまった」とのこと。当初は米国の飛行学校志望を夢見たものの実現できず、陸軍でようやく宿願がかなったいうことです。
 
 当時の同期生は5人。4人は軍隊に残り、陸軍曹長となっていた長谷川飛行士も遺留されましたが、民間航空の発展が遅れていることを心配した長谷川氏飛行士は、民間航空の進路開拓のため軍を退くと決心。そして陸軍から払下げを受けたサルムソンで1924(大正13)年4月14日、岐阜県の各務原飛行場から北アルプスを越えて松本市の歩兵第50連隊練兵場へ降り立ちます。これが、民間飛行士としての第一歩でした。

昭和初期とみられる松本市街図
地図の右上、歩兵第五十連隊の北側にある練兵場に着陸

 当時の信濃毎日新聞の記事によると、長谷川飛行士は「これからはまづ松本市に根拠を置いて東京及び各務原との連絡飛行を行いたい」などと抱負を述べています。しばらくは練兵場の仮倉庫を利用していたようですが、間もなく小里頼永市長を会長とする後援会が発足し、資金を募って松本市南部の笹部地区に1万5千坪の飛行場が翌年7月に開設されます。
 1928(昭和3)年には格納庫も増設され、飛行機も5ー6機に増やして飛行学校を開校。かつての長谷川飛行士の飛行を見て空への思いを馳せた飯沼正明(長野県東穂高村出身=現・安曇野市)も教えを受け、後に神風号で東京ーロンドン間の最速記録を樹立して名をはせています。

上掲地図の南部、飛行場とあるのは笹部飛行場

 民間となってから、長谷川飛行士は宣伝や遊覧飛行、航空写真撮影、新聞の原稿輸送など、さまざまなことに取り組みます。結氷した諏訪湖への着陸や大町尋常小学校校庭への着陸など、航空思想普及の試みも度々行っていました。また、北アルプスなど山岳飛行は何度も行い、撮影だけでなく気流の状態など、さまざまな資料を作り関係者へ提供しています。後援会も長野市で映画会を開くなど、資金と宣伝、啓蒙への協力をしています。帝国飛行協会の第一回功労者表賞も受けました。

1927年5月23日付信濃毎日新聞朝刊。相生座は現在も健在

 ただ、黎明期とあって、経営は決して順調ではなく、各地で歓迎の宴を催してもらっても、お金の心配から「どうしても浮き立たなかった」ということです。そして、飛行機自体もまだまだ未完成な時期。白馬上空でガソリンが凍り付いてエンジンが止まった時は滑空を続けながら河原に不時着し、集まってきた付近の人に手伝ってもらって石をのけ、離陸できる準備をしている間に何とかガソリンが溶けて出発できたこともありました。
 不時着で一番苦労したのは1932(昭和7)年のことで、各務原から松本へ向かう途中でエンジンが故障し、下呂温泉の北方のわずかなすり鉢の底のような谷間に不時着します。しかし、それからが大変で、機体を分解しても運び出せないので、付近の人の協力で幅4メートル長さ160メートルの滑走路を河原に造ってもらいます。川に沿って曲がってもいるからこの上ない冒険で、なんとか浮いて木の枝にも引っかかりますが枝が折れたので上昇できたということです。

 そんなこんなでやってきた長谷川飛行士でしたが、1934(昭和9)年の室戸台風で格納庫と飛行機が全滅します。新しい飛行機を調達するのも困難で、以後は滑空訓練の指導などを行いますが、飛行士としての活躍は終えざるを得ませんでした。ちなみに、笹部飛行場は現在の松本市の自衛隊駐屯地そばにあったということです。
 そんな長谷川飛行士は一線引退から6年の1940(昭和15)年9月、信濃毎日新聞の取材に、こう答えています。「十年一昔という言葉は航空界には通用しません。三年経てば航空界は全く面目を一新してしまうので三年一昔とでも言うべきでしょう。従って私などもう今日の航空界からは完全に置いてきぼりにされています」と。
 別に老いているわけではなく、このころは弓道に打ち込んで錬士四段にもなり、神宮大会県下予選会で1等になるほどの腕前になっています。それでも技術の進歩を直視し後継にゆだねているのは、おのれを知ると共に、できる時に無理を押してもやり切ったという思いもあるからではないでしょうか。長野県の、日本の航空界の先人として、そして多くの県民がその先人を支えた事、ともども覚えておきたいものです。 

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