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防空演習で戦時体制強化も、空襲被害は壮絶

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1928(昭和3)年に初めての防空演習が行われて以来、人々に戦時体制をいやでも植え付ける狙いから防空演習が頻繁に行われます。が、日本の防空対策は人が待機して消化させるというのが基…
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#戦時下

国土防空、頼るは人の目と耳。重要な敵機識別のため長野では模型製作競技会も

 日本は国土の幅が狭いため、防空のためには海上も含めた各地へ監視の拠点を設けて、一刻も早…

木曽町に残る赤黒迷彩の土蔵ーなぜ赤と黒か

 表題写真と下写真は以前、長野県木曽町に行って撮影してきた、戦時中に迷彩をほどこしたとい…

収蔵品の手探りの保全作業

 表題写真は、長野市内で使われた「空襲警報発令中」「警戒警報発令中」の立派な看板です。地…

国民学校の子どもたちも、防空体制に組み込まれーでも最初に守るのは御真影

 今の小学校に当たる国民学校も、軍事の波はかぶさっていました。修身などの精神面に加え、大…

太平洋戦争下の秋、松本市で警防団が空襲に備えて注意して回ったのは「防火用の桶で漬…

 日本では日中戦争当時から防空訓練が繰り返され、各家庭では焼夷弾に対応するため、消火資材…

核兵器の怖さを知らない国が核兵器を持つ恐ろしさー恐怖の均衡はたくさんだ

 広島と長崎に投下された原子爆弾の威力は、なかなか想像できないものです。ただ、投下直後の…

昭和15年12月、全国の役場に届いたDMの中身はー確かに戦時下のものでした

 1940(昭和15)年12月、1937(昭和12)年から始まった日中戦争は終わりが見えず、前の年にはヨーロッパで第二次世界大戦も起こっている戦時下で、料金別納で山梨県のある町役場に届いた名古屋市の印刷・紙加工品・防空用品メーカー「三友社」の封筒、今風に言えばダイレクトメールですね。   いっぱい入っていますね。「警防団」という防空組織あてでもあるので、防空用品の紹介もあります。日本も重慶爆撃を繰り返していましたし。また、前の年の国家総動員法に基づく価格等統制令で、公定価格

空襲からの学校防護はまず「御真影」

 表題写真は、木曽中学校(現・木曽青峰高校)にあった奉安殿です。この中には国から下賜され…

貴重な1942年の防空演習記録ーニューラルネットワークの色付け写真でどうぞ

 長野県上田市の小県蚕業学校(現・上田東高校)の1942(昭和17)年度卒業アルバムを入手しま…

1931(昭和6)年に長野県内各地を巡回した戦争映画「大空軍」は航空予算獲得の世論作…

 1931(昭和6)年2月11日の紀元節に合わせて、松竹系の劇場で映画「大空軍」が封切られま…

長野市初の防空演習は1932(昭和7)年。本番はその11年後に。

 日本で防空演習が最初に行われたのは1928(昭和3)年、大阪においてでありました。長野県で…

「逃げるな、火を消せ」と、盧溝橋事件から間もない1937年8月、長野県全域の初の防空…

 北京郊外の盧溝橋での日中両軍の衝突から交渉がこじれて日中戦争がはじまった1937(昭和12)…

戦時下、空襲に備えて各家庭に求められた灯火管制。アイデア商品もたくさんあらわれま…

 大日本帝国の戦時下における空襲対策で、民間に最も求められたのが、夜間、屋外に光を漏らさ…

1945年3月10日、3時間の空襲が10万人の命を奪った「東京大空襲」ー覚えておかねばならない、戦争の実態と国の責任

 表題写真は、愛知県内の空襲で米軍の重爆撃機B29から投下されたM69焼夷弾の焼け柄です。金属製のこの筒だけでも1.3キロ。内部に燃焼材が詰まった状態なら2・8キロほど。これが雨のように日本各地に降り注がれました。長野県上田市でも1944(昭和19)年12月9日夜、約80発の焼夷弾が小県蚕業学校に命中、ほぼ全焼する被害を出しました。  2024年から見て79年前の3月10日、東京がB29、296機による空襲を受けます。事前に偽の陽動飛行があり、去ったとして警報が解除されたと