マガジンのカバー画像

防空演習で戦時体制強化も、空襲被害は壮絶

35
1928(昭和3)年に初めての防空演習が行われて以来、人々に戦時体制をいやでも植え付ける狙いから防空演習が頻繁に行われます。が、日本の防空対策は人が待機して消化させるというのが基…
運営しているクリエイター

#戦時下の生活

空襲に対する臣民の覚悟は、隣組を通じて伝達ー既にバケツも不足の時期、火を消すこと…

 大日本帝国は1937(昭和12)年4月公布10月施行の「防空法」で、軍隊により空襲を防御する「…

中部軍司令部監修「国民防空」を読むー番外編ー戦時下防空商品の広告推移に時世を見る

 1941年から1943年までの4冊の「国民防空」を見てきましたが、どの号も協賛の防空関連会社の…

中部軍司令部監修の月刊誌「国民防空」を読む(下)ー危機感が出たころは資材不足

 財団法人阪神航空協会内に事務所を置いた国民防空出版協会が、1939(昭和14)年7月から少な…

中部軍司令部監修の月刊誌「国民防空」を読む(中)ー科学が登場するも、結局は精神。…

 財団法人阪神航空協会内に事務所を置いた国民防空出版協会が、1939(昭和14)年7月から少な…

中部軍司令部監修の月刊誌「国民防空」を読む(上)ー空襲の七つ道具とは

 財団法人阪神航空協会内に事務所を置いた国民防空出版協会が、1939(昭和14)年7月から少な…

防空壕と呼ばず「待避所」と強調して臣民に空襲の消火を義務付け、浸透を図っていたの…

 1943(昭和18)年8月4日に政府の情報局が発行した「写真週報・第283号」は、別に発行した「…

国土防空、頼るは人の目と耳。重要な敵機識別のため長野では模型製作競技会も

 日本は国土の幅が狭いため、防空のためには海上も含めた各地へ監視の拠点を設けて、一刻も早く敵機の飛来を通報する体制が必要でした。大日本防空協会編纂発行、内務省推奨の「防空絵とき」(1942年11月発行)では、その監視体制をパノラマで説明しています。  上写真、防空監視哨では、小屋根の構造物は音がよく反射して聞こえる構造をしていました。昼間はもちろん、夜間はここが頼りです。詳細はまた別の機会にしますが、外に立っている人の目視による監視と合わせて効果を上げる形でした。また、監視

さんざん防空演習やっても、田の草取りは偽装が必要になって「航空陣鉄壁なり」と言わ…

 まずこちら、1933(昭和8)年8月23日発行のアサヒグラフ。表紙を含め、第一の特集は関東防…

木曽町に残る赤黒迷彩の土蔵ーなぜ赤と黒か

 表題写真と下写真は以前、長野県木曽町に行って撮影してきた、戦時中に迷彩をほどこしたとい…

昭和15年12月、全国の役場に届いたDMの中身はー確かに戦時下のものでした

 1940(昭和15)年12月、1937(昭和12)年から始まった日中戦争は終わりが見えず、前の年には…

貴重な1942年の防空演習記録ーニューラルネットワークの色付け写真でどうぞ

 長野県上田市の小県蚕業学校(現・上田東高校)の1942(昭和17)年度卒業アルバムを入手しま…

1931(昭和6)年に長野県内各地を巡回した戦争映画「大空軍」は航空予算獲得の世論作…

 1931(昭和6)年2月11日の紀元節に合わせて、松竹系の劇場で映画「大空軍」が封切られま…

長野市初の防空演習は1932(昭和7)年。本番はその11年後に。

 日本で防空演習が最初に行われたのは1928(昭和3)年、大阪においてでありました。長野県で…

「逃げるな、火を消せ」と、盧溝橋事件から間もない1937年8月、長野県全域の初の防空演習が行われていました。

 北京郊外の盧溝橋での日中両軍の衝突から交渉がこじれて日中戦争がはじまった1937(昭和12)年7月に先立つ4月5日、「防空法」と呼ばれる法律が公布され、10月1日から施行されます。まるで準備万端、日中戦争に備えていたような絶妙のタイミングです。  防空法は、空襲があったときに民間人もこれに対応するため、組織や装備、備え、行動などを決めたものです。防空壕は敵が通り過ぎるのを待つまでの避難所ではなく、敵の爆弾が落ちたら飛び出して消火に当たれという一時的な待避所といった位置づけで