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46/1,000冊目 村松 友視(著) 『百合子さんは何色: 武田百合子への旅』

村松 友視(著) 『百合子さんは何色: 武田百合子への旅』

著者:村松 友視
出版年:1994年9月
出版社:筑摩書房

概要

作家・武田泰淳の妻であり、自らも数少ない珠玉の日記、エッセイをのこし、昨年死去した武田百合子。不思議な謎を秘めた彼女の人生に色をそえるために作家、村松友視が書き下ろした鎮魂の書。

感想

武田百合子や武田泰淳の文才を相対的に体感できました。「色」という比喩がそもそもすっと入ってこず、いちいち思考が止まるのですが、それでも真摯に武田百合子さんという存在がどんなものだったのかということを紐解くことに打ち込み、時代もまかせてか下品になるほど食い下がるところもあり、しかしそれゆえに武田百合子さんという存在のいろいろな面が見られてとても満足しました。

ほとんど恋に近い中身だったように思います。


村松 友視

村松 友視氏
画像出典:日刊ゲンダイ

村松 友視(むらまつ ともみ)
生まれ:1940年〈昭和15年〉4月10日 -
日本の作家、元編集者、エッセイスト。

来歴

東京市渋谷区千駄ヶ谷で生まれ、4歳から静岡県富士宮市、周智郡森町で、終戦後は清水市(現・静岡市清水区)で育つ。祖父は作家の村松梢風。父・村松友吾は中央公論社の編集者。母も中央公論社に勤務。父方のおじに脚本家の村松道平、教育評論家の村松喬、中国文学者の村松暎(慶應義塾大学文学部教授)がいる。

父・友吾は中央公論社を退社した後、妻とともに上海に移住し「上海毎日新聞」の記者となっていましたが、友視の生まれる前に腸チフスで他界。祖父梢風は、若い未亡人の将来を案じて再婚を薦め、生まれた友視を梢風自身の五男として入籍する。

だが梢風は戦後疎開先から戻ると鎌倉で愛人と暮らし、友視は清水で祖母(梢風の妻)一人に育てられます(ひどい)。

少年時代から熱狂的なプロレスファンとして育つ。静岡県立静岡高等学校を経て、1963年慶應義塾大学文学部哲学科を卒業。

大学時代はテレビ局でアルバイトをしていたため、そのままテレビ局に入社するつもりでいたが、入社試験に失敗。その後、何社ものマスコミを受験するが合格せず、祖父、父の縁がある中央公論社の社長、嶋中鵬二に依頼して、既に締め切っていた中央公論社の試験を受けて入社。

入社後は『小説中央公論』『婦人公論』の編集者として働く。『婦人公論』時代にはベトナム戦争下のサイゴンを取材した他、編集者として伊丹十三のサロンに出入りしていました。

また叔父村松暎の教え子で『婦人公論』編集者時代に伊丹の担当者だった草森紳一と知り合い、彼の薦めで雑誌「デザイン」等にコラムを執筆していました。しかし同人雑誌や文芸クラブなどに所属したことも一切なかったので、作家になろうとはまだ思っておらず、仕事を通じてかろうじて文学と縁をもったという印象だったという。

1969年に文芸誌『海』創刊準備のため、新雑誌研究部というセクションに異動。創刊後はそのまま編集部員となりました。途中入社して『海』に参加した安原顯(やすはら けんと同僚として交際した。

『海』時代は「既成の作家の中にもすごい人はいるけれど、文壇外の作家を探し出すのが僕の本当の役目だという強い意識」があったという村松は、海外文学は安原にまかせ、当時クローズアップされていた「状況劇場」の主宰者、唐十郎の戯曲を編集長の反対を押し切って掲載するなど日本の「既成文壇外」の作家を発掘し、江藤淳らに高く評価されるなど名編集者ぶりを発揮しました。

武田泰淳『富士』、後藤明生『夢かたり』、田中小実昌『ポロポロ』、色川武大『生家へ』、武田百合子『富士日記』などを担当していました。また野坂昭如吉行淳之介の担当編集者でもありました。

編集者として働く一方で、自分の祖父が作家だったという自負から次第に作家への志を持つようになり、文芸雑誌の新人賞に何度も応募するが落選を繰り返しました。

だが後藤明生に才能を認められ、「吉野英生」名義で、後藤が責任編集の一人である雑誌『文体』(平凡社)に「変装のあと」を発表。この作品が福武書店の編集者の寺田博の目にとまり、雑誌『作品』に「オペラグラス」「悲劇のように」を発表。

しかし文壇への本格的なデビューは思わぬことから果たされることになりました。1980年(40歳)に情報センター出版局の編集者が、糸井重里にプロレスのエッセー執筆を依頼。しかし糸井は自分の知っているプロレスフリークの編集者の方が面白い、と村松を紹介した。編集者から話を聞いた村松は気楽な気持ちで執筆、更に会社の人間は読まないだろうと先述のペンネームを使わず本名で『私、プロレスの味方です』を出版。本人の予想外のベストセラーとなり、続編『当然プロレスの味方です』も執筆することになりました。

続けて『野性時代』の編集者、見城徹の勧めでに発表した「セミ・ファイナル」と「泪橋」が、相次いで直木賞候補となります。1981年(41歳)、専業作家への転向を決意して退職。直後の1982年(42歳)に『時代屋の女房』で第87回直木賞を受賞。この作品は映画化もされて話題となりました。

見城徹
画像出典:GOETHE

以降は風俗小説や、時代小説などを多数発表。自身とかかわりのあった人物についての評伝的作品も多い。また『夢の始末書』『鎌倉のおばさん』(泉鏡花文学賞受賞)、『上海ララバイ』のような自伝的な作品もあります。

1986年(46歳)にテレビ放映されたサントリーオールドのCMにも出演し、「ワンフィンガーでやるも良し。ツーフィンガーでやるも良し。」というウイスキーの目分量を指の本数にたとえて表現した、“ワンフィンガー・ツーフィンガー”は1987年(47歳)の新語・流行語大賞の流行語部門・大衆賞を受賞しました。以降、多数のテレビ番組にも出演していました。


1997年(57歳)「鎌倉のおばさん」で第25回泉鏡花文学賞受賞。


人物

編集者時代は「武闘派」の人物であったようで、村松本人も安原顯の死後に発表した『ヤスケンの海』の中で、先述の『海』編集長との対立以外にも、中途採用された安原が「大学中退」の学歴を黙っていたことで総務部から苦情を言われると、総務部に怒鳴りこんだなどのエピソードを明らかにしています。

また村松が『海』に起用し、その後エッセイストとして活躍する嵐山光三郎は『昭和出版残侠伝』で、編集者時代の村松について「こんなに喧嘩っ早い編集者は見たことがない。」と描写しています。

熱狂的プロレスファンである以外には、猫好き愛猫アブサンについての本を何冊も刊行しています。

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またジャズを好み「ベーシーの客」などの著書もあるほか、タモリなどとも交友があり、綾戸智恵を全国規模の有名人にしました。


エピソード


両親は二人とも他界したという周りの説明を信じ込んでいたが、中学3年の時に初めて母親が生きており、親戚のおばさんとして何度も会っていたことを知る。

ただそれを教えてくれたのは育ての親である祖母ではなく、祖父の梢風の愛人でした。

それ以降漠然とした不安感を抱え、更に大学に入ると祖母がよそよそしくなったことで、大学卒業まで何事にも真摯になれないまま過ごしていたと回想しています。

『海』時代は吉行淳之介の担当編集者でもあったために行動を共にすることが多く、吉行伝説の語り部の一人でもあります。まだ吉行と親しくなる前に永井龍男から「あなたは吉行淳之介に似ているねえ」と言われたそうです。

唐十郎(から じゅうろう)は後に「佐川君からの手紙」で芥川賞を受賞しますが、そのきっかけは村松が小説執筆を勧めたことにあると述べています。また「状況劇場」が戒厳令下の韓国で公演を行う際、「担当作家と同行する仕事」という名目で村松氏は同行していました。

唐十郎(から じゅうろう)
文部科学省ホームページ, CC 表示 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=112604283による


唐も村松の直木賞受賞に駆けつけています。また唐との交友から「状況劇場」のポスターを描いていた篠原勝之と知り合い、彼の紹介で赤瀬川原平南伸坊、糸井重里を知り、毎月末には彼等と村松家で「ムラマツ宴会」なる集まりを行うようになっていました。この宴会には小林薫安西水丸が顔を出すこともありました。この集まりは村松の文壇デビューのきっかけになったほか、村松は唐の示唆で赤瀬川に小説を書くよう薦め、彼が尾辻克彦名義で純文学を執筆するきっかけも作っています。

1980年に『私、プロレスの味方です』がベストセラーになった直後、『本の雑誌』を創刊したばかりの椎名誠から執筆依頼がくるが、『本の雑誌』を読んでいた村松は逆に椎名に小説執筆を依頼。椎名の初めての小説「ラジャダムナン・キック」を『海』に掲載します。当時の二人はまだ専業作家ではなかったので、喫茶店で会ってはテーブルの下で原稿を交換していました。

市川猿之助(3代目)とも交際があり、ファンクラブ向けの新聞「おもだかニュース」の編集を手伝っていました。

岩手県一関市のジャズ喫茶ベイシーの主人、菅原昭二とは深い親交があり仲人もつとめ、『「ベーシー」の客』という作品を発表しています。なお、この店があったため、晩年の色川武大は一関市に引越したそうです。

執筆のペースをつかむために机の上にハカリを置いて原稿の重さを確かめていました。

腸チフス

腸チフスは、チフス菌(Salmonella Typhi)を原因とし、生命を脅かす感染症です。通常、細菌を含んだ食べ物や水を介して拡がります。一旦、チフス菌(Salmonella Typhi)が飲食によって摂取されると、細菌が増殖し、血流に乗って広がります。

都市化や気候変動は、腸チフスの世界的な脅威を増大させる可能性をもっています。また、抗生物質による治療への抵抗性が高まり、腸チフスは都市部の過密な住居地や設備が不十分で溢れる上下水道設備を通して、容易に拡がっていきます。*2


参照

*1


*2


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