『優しさ』(創作エッセイ)

ほとんど一目惚れだった。マイナス10°に垂れた大きな目、艶やかな黒髪を綺麗に切り揃えたボブカット、小柄な体格、大人びた大学生のような色気。彼女のとびっきりの笑顔と親切心を持って行われる接客がそれらの魅力的な要素をより輝かせていた。

10月、着る服が長袖か半袖か定まらないような秋の入り口に彼女と出会った。正確には彼女を見たと言う方が正しいかもしれない。アルバイトを初めてまだ半年と経たない大学一年生の私は労働の対価として金銭を貰う楽しみにすっかり虜になってしまい、空いている日はほとんど毎日のようにアルバイトをしていた。希望する日時にだけ働ける単発のイベントスタッフはカレンダーと知的好奇心を満たすのにとても都合が良かったのでよく利用していた。その日は地下アイドルかなにかのライブイベントで、渋谷の道玄坂にあるビルの6階でスタッフとして働いていた。ライブの開演前にはグッズの事前販売があるということで、グッズの販売待機列を整理するのが仕事だった。いかにもといった風貌のオタクが販売開始時刻に近づくにつれて列を伸ばしていく様子を見て、「きっと彼らはあんな風貌だけど、満たされない今の俺より幸せなんだろうな」なんて不躾なことを考えていた。

グッズの販売時刻になると、販売所に受付のスタッフが3人並んで、お客様を大きな声で呼び始めた。一旦、お役御免となったので、何かあった時にすぐ対応できるように、少し離れた位置で販売所を見ていた。そこで初めて彼女を見た。とても綺麗な人だと心から思った。結局その日はずっと彼女の事を考えながら働いていた。不謹慎だが、彼女が見える時はずっと彼女のことをチラチラ見ていたと思う。アルバイトが終わり、帰宅となったタイミングで、奇遇にも彼女が担当する物販も終わっていて、片付け作業に入っていた。まさに千載一遇のタイミングである。成功したらプラス、失敗してもプラマイゼロと自分に言い聞かせると私は彼女に思い切って声をかけた。「お疲れ様です。」と大学生、社会人では定型句となった挨拶から入り、「すごくタイプなのでLINEを交換してほしい」と彼女に伝えた。するとみるみるうちに彼女の美しい白い肌はピンクに染まり、私は今までに感じたことが無いような情欲を感じたのを覚えている。彼女に声をかけるまですっかり存在を忘れていた周りのスタッフがいつの間にか私と彼女を取り囲んでおり、彼らに冷やかされながらも彼女はLINEのQRコードを見せてくれた。

家に着くと天にも昇るような気持ちで彼女にLINEを送った。彼女の返事は早かった。それがより一層気持ちを高ぶらせた。とんとん拍子で話は進み、今度二人で食事をすることになった。ほとんどナンパのような形で出会った女性とどのような食事をすればいいのかわからなかった私は、高校の時に好きな女の子と二人で行ったパンケーキが美味しいカフェをとりあえず予約した。好きな女の子と行ったことがあるカフェである事実は伏せつつ、カフェを予約したことを伝えると、彼女は大げさに喜んでくれた。

約束の日になり、待ち合わせ場所であるハチ公前で彼女と合流した。桜色のアイシャドウがとてもよく似合っていた。カフェに入ると向かい合って着席した。パーテーション越しではあったものの、ほとんど初対面だったので質問のテンポの良い会話だったと記憶している。そんな会話の中、パンケーキを食べながら、お互いに年齢と職業を尋ねるタイミングがあった。そこで私が19歳の大学生だと話すと、彼女は驚いた表情で「若いね~!私は26歳で社会人だよ!」と言った。正直、驚いた。彼女の小柄な体格、メイク、雰囲気から彼女を大学4年生かせいぜい新卒1、2年目だろうと私は推測していた。

カフェの会計は彼女が全額支払ってくれた。その日のデート中、とにかく彼女に惚れていた私は彼女に可愛いと言い続けた。それを聞いて、照れて頬をピンクに染める彼女がたまらなく愛おしかった。手をつないだ時に、手が手汗まみれになっていることを恥ずかしがる彼女もまた、愛おしかった。

帰宅後、彼女からLineが来ていた。真剣に付き合うかもう会わないか選んでほしいという内容だった。当時、卒業してから再会した高校の同級生と付き合って2か月目になる私は双肩に重い石が乗るのを感じた。付き合って2ケ月になる同級生のことはもう好きではなかったが、弱い自分は同級生との別れに踏み切れず、惰性で付き合っていた。しかし、渋谷で出会った彼女と付き合いたいと思っても、その後の結婚や出産というプレッシャーが二の足を踏ませた。

結局、結婚や出産を心配するそぶりを見せながら、渋谷で出会った彼女とはもう会わない選択をした。弱い私はプレッシャーに耐えられなかったのである。急に怖くなって連絡先も消してしまった。当時付き合っていた同級生ともその2ヶ月後に向こうが私を振る形でお別れした。弱い私は最後まで彼女を振ることが出来なかった。

私は優しさという大義名分で自分の弱さを隠す臆病な卑怯者である。あの時のお姉さんは今どうしているだろうか?幸せだといいな、と卑怯者の自分はふと考えたりする。

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