「ヤレるなら誰でもいいんでしょ」
「ヤレるなら誰でもいいんでしょ」
現実でもフィクションでも、恋愛的文脈においてよく聞く言葉である。下心丸出しでよってきた人(多くの場合で男)に対して、言い寄られた側(多くの場合で女)がこのようにいう。お前がみていたのは私自身ではなくヤれる対象だったのだろ、と。
僕は男なので、これを言われる側である。言われる側としては、そんなことないよ、君自身が好きだよ、とかなんとか、胡散臭い言葉を並べる。それでも良いのだが、たまに、「ヤれるなら誰でもいい」という文は、正確には何を意味しているのだろうか、とか考えてしまう。
仮にここでの登場人物を、智久くんと愛子ちゃんとしよう。他意はない。智久が愛子に言い寄ってきて、愛子が「ヤレるなら誰でもいいんでしょ」と牽制あるいは拒否するような事態を考えてみよう。
「ヤレるなら誰でもいい」を丁寧に言い換えると、「智久は、ヤルことができる相手であれば、誰でもヤる」というということだろう。ここに現れている、「ヤルことができる相手」という表現が、なかなかの曲者であるように思われる。
有名人でイケメンでお金持ちで多くの女性の憧れなので、智久には「ヤルことができる相手」はたくさんいると思われる。智久にとって、女性を口説いてベッドインすることは朝飯前なのである。この点で、智久が「ヤルことができる相手」は、たくさんいるのである。
智久が愛子を口説いている瞬間に話を移してみよう。ここで仮に、あくまでも仮に、彼らが港区のバーで2020年の7月30日に一緒に飲んでいたとしよう。そこで、愛子が「ヤレるなら誰でもいいんでしょ」と言うのである。
確かに愛子がいうように、かっこよくてお金持ちなので、「智久がヤることができる相手」はたくさんいるだろう。
しかし、「ヤルことができる相手」をかなり限定的に捉えることもできるだろう。つまり、「2020年の7月30日に港区でヤルことができる相手」は、智久がいくらかっこいいとはいえ、愛子くらいだろう。なぜなら、もう他の人と会うには遅すぎる時間だし、同じバーにも他の客がいないのである。つまり、原理的には、「できる」という表現をかなり制約された仕方で解釈すれば、智久が「ヤルことができる相手」は、まさに愛子一人に限られるのである。
(少し専門的な話をすると、「できる」や「可能である」は、現実では起こり得ないような事態ーー可能性ーーに関わる、様相表現というものである。様相表現を捉える際によく使われるのが、可能世界という道具である。「智久がヤルことができる相手」がたくさんいるという解釈においては、智久が7月30日に港区ではなく江東区で飲み会をしていた場合や、別の国で飲み会をしていた場合などの、現実とは異なる可能世界に言及していると思われる。他方で「智久がヤルことができる相手」が、まさに愛子一人に限られる解釈においては、「7月30日に港区のまさにこのバーで智久が飲んでいる」事態、つまり現実世界だけを解釈の対象としていると思われる。)
ということで、「ヤレるなら誰でもいいんでしょ。だからだめ。」と言った際、智久は「『できる』の意味を制限した形で解釈すれば、ヤレる人はあなた一人に限られるので、誰でもいいという批判は当たらない。」と切り返すことができるだろう。
だからどーした。
参考
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