見出し画像

おしゃれ、自由、ルッキズム

また締まりの良くない文を書いてしまったので、とんでもなく暇だったら付き合ってほしい。

見た目に気を使うことで、自信を持つようになった人は多いと思う。服に無頓着だったがちゃんとコーディネートをするようになったら人によく思われるようになったり、整形をしたらコンプレックスがなくなって堂々と自分の顔を見せられるようになったり、スキンケアをしたら肌の調子がよくなって心の調子も良くなったり。そのような人たちは、見た目を良く、美しくすることで自信をつけている。彼らにとって、見た目を良くすることは自信につながるポジティブな営為である。

ここでは「見た目を良くする」という行為から絞って、「おしゃれをする」という行為を考えてみる。お洒落をすることで自信がつくのはなぜか。第一に、他者からの評価が変わる。美男美女やおしゃれな人にはそれだけで「人として魅力的」という評価を受けやすい傾向がある。同様に、おしゃれな人はそれだけで何か美的魅力を帯びているように思われる。このような評価を友人や周りの人から得られるために、おしゃれは自信をもたらす。

第二に、他者の評価にかかわらず、おしゃれな自分を好きになれる。人に好かれるためにコーデをしているというよりは、自分の好きな自分になるために服にこだわる。ここでは、一応、他人の基準は関係ないことになっている。

どちらの方が割合としては大きいのだろうかは良くわからない。また、そもそも両者は密接に関係していそうでもある。話を簡単にするために、今回は第一の「他人に評価されるためのおしゃれ」がどんな帰結になりうるかを、考えてみたい。

そもそもここでの他人とは誰だろうか。特定の誰かがいて、その人からの評価を高くしたいということだろうか。そうではないだろう。もちろん、憧れのxxさんに好かれたいからおしゃれをする、というのは動機の一つにはなるだろうが、我々がおしゃれをして人に良く思われたいと考える時、「他人」はもっと漠然としている。なんとなく、いろんな人に「おしゃれだよね」と言われたい、くらいのものだろう。

この場合に参照されるおしゃれさの基準とはなんだろうか。考えられるのは、社会における「こういう人はおしゃれだ」という決まり事のようなものである。ファッション誌やネット記事を見れば、王道コーデや外れないコーデがたくさん紹介されている。ああいうものである。そこでは、「ダメージジーンズはガキっぽいからやめとけ」「カジュアルとフォーマルを7:3」「今年はテーパードを履こう」など、色々書いてある。反対に、カジュアルフォーマル比を守れない人や、大人にもなってボロボロのダメージを履いている人は、「ダサい」という評価を下されることになる。

このようなファッション記事に従えば、無難でシュッとした感じのコーデは間違いなく手に入るだろう。このシュッとしたコーデによって、マジョリティからの一定程度の評価が手に入ると思われる。なぜならそれは、特定の誰かに刺さるような尖ったおしゃれではなく、広く受け入れられるようなおしゃれだからである。いわばテンプレ化されたおしゃれによって、万人受けするような外れないコーデが手に入る。

おしゃれのテンプレ化は、チェックリストのようにxxに従えばおしゃれ、そうでなければダサい、というような単純化をもたらす。ジーンズの例で言えば、ダメージを履いていればダサい、黒スキニーはおしゃれ、といった評価になる(ちなみに最近は黒スキニーがダサいというトレンドがあるらしい)。このような単純化の利点は、おしゃれ/ダサいの判断が付きやすくなるというものもあるが、それ以上に、誰でもおしゃれに入門しやすいということが挙げられる。マニュアル化テンプレ化されているのだから、全く服を気にしたことがない人でも、それに従えば良いのである。

しかしこのテンプレ化は、あまり健全なものだとは言い難い。大きな問題として、おしゃれという美しさの基準を、単純化し一元化してしまっているというものが挙げられる。まず、服や靴や鞄を選ぶという行為は本来もっと自由であるはずなのに、テンプレが頭によぎって好きなものを選ぶことができなくなってしまう。

テンプレ化単純化が行き過ぎて仕舞えば、テンプレに従わないスタイルは全てダサい、という極論にもなってしまう。要するに、ファッション記事の基準に従っていないストリートスタイルなんかが全部ダサい、ということになる。幸いにも服や靴や鞄など、おしゃれに分類されるものは、そこの自由さは保たれているように感じる。つまり、ある程度のテンプレは存在するが、必ずしもそれに従っていなくていいし、従っていなくてもそれは独自のスタイルとしてまた評価される、というものである。独自のスタイルが認められる寛容さがあるところに、おしゃれという概念の幅広さがみてとれる。

思うに、おしゃれが根本的に自由であるというのは、服や靴や鞄など、肌から外すことができるものについては、自分で着脱を選択できる余地があるということに由来していると思う。他方で、服のように自分を覆うものではあるが自由に着脱できないものとして、肌や生まれ持った顔などがある。見た目に基づく差別、ルッキズムが非難される要因の一つには、肌や顔など選択の余地がなく生まれもったものに基づく評価は良くない、というものがあるだろう。この点については異論の余地はない。

しかしこれは逆に、後天的に変えられるもの、例えば服のチョイス、については、選択の余地があるのだから、非難が可能であるということを意味するのだろうか。噛み砕いて言えば、おしゃれになることは誰でも時間とお金をかければできるのだから、おしゃれではない人は非難の対象となりうるし、おしゃれじゃないことを要因に不当な扱いを受けても、文句は言えない、ということになるのだろうか。不自分で服を選んだり、人のコーデを評価するときは、この辺りを考えてみても面白いかもしれない。

よろしければぜひ