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ブルックリン物語 #71 "Blue in Green"

ワシントンDCの老舗ジャズクラブ「ブルースアレイ」は敷居が高い。初めてこのクラブに足を踏み入れたのは日本大使館が主催している桜祭りの時だ。このクラブのオーナー兼ブッキングマネジャーのハリーさんの印象があまりにも強烈で、その人が経営するジャズクラブを直ぐにでも見てみたいと思ったのだ。

ワシントンDCで毎年春に行われる桜祭りに八神純子さんが出演するので伴奏ピアニストとして声をかけてもらった。その時会場になったワーナーシアターで終演後にハリーさんに初めて会った。他にもメインゲストで出ていた山中千尋さん、アンデイグラマーさんなどと、大使や関係者たちが舞台袖で賑やかに交流していた。笑い声が溢れ、握手やハグが続いていた。

「彼は日本でシンガーソングライターをしていて今ジャズピアニストとしてNYで頑張っているのでいつかハリーさんのお店(ブルースアレイ)にも出演の機会があれば!」と日本大使館のO公使に紹介していただけたので「ぜひ」と心を込めて握手した。「へえ、そうなの」ハリーさんの顔から一瞬笑いが消えて興味を感じたような表情になり、鋭い観察の目が僕を射抜く。ほんの一瞬だったけれど強烈な印象で、この人ただものじゃないなと思った。

O公使が打ち上げの食事に行く途中に「ブルースアレイが途中なので」と連れて行ってくれた。ちょうど店では1部が終わりそのお客たちが外へ流れ2部のお客たちが中へ入れ替わる最中だった。僕たちは外に出てくる客に逆行してドアの中を覗き込んだ。ベイビーグランドがブルーの灯りのステージの上で静かに呼吸をしていた。しばしの休憩の途中なのにそこには音符が見える。「DCのジャズの殿堂ですよ。観光客も多いので世界中からファンが来る店です」夢中で中を覗き込みながら僕は「そろそろ移動しますか?」O大使に言われるまで自分があのピアノを弾く姿を思い描いていた。ここで演奏するぞ、心に誓った瞬間だ。

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キビキビ動く店のクルー、サウンドエンジニア、世界中からやってくる凄腕のミュージシャンとそのファン、ジャズというキーワードで集まった人たちの場の熱気に圧倒され、ハリーさんの宝石「ブルースアレイ」という小屋が瞼に刻まれた。この中に入って演奏する日が来るのかどうかは神のみぞ知るだが、必ずここへ帰ってくる、と密かに心に決めた。無謀な夢でも決めないと頑張れないし、そう決めたら努力を厭わない自分になれる。

それから数ヶ月後、あの日ハリーさんに舞台袖で僕を紹介してくれたワシントンDCの大使O氏がNYにジャズのリサーチにやってきた。「DCの桜祭りへ出演するジャズミュージシャンの候補の何人かに会うんですが、Senriさん、もしかして時間がありますか?」というメールだったので「ぜひ」と答えて公使の指定した老舗の日本レストランへ向かった。

驚いたことにO氏自身が音楽家でもあり演劇にも造詣が深いということで、非常に耳や目の肥えたキュレーターであった。その時はジャズに対するそれぞれの熱き思いを交換し、持参した自分のジャズのCDを3枚彼に渡したのだけれど、直感でおそらく次の桜祭りのラインナップには選ばれないだろうなと思った。O氏と僕はジャズに対して熱い思いがあり過ぎて、お互い熱情的な語り口で気持ちが若干ぶつかった。僕はずいぶん生意気な口の利き方をしちゃった気もして、若干反省しながらO氏とグランドセントラルステーションで別れたのだ。少しだけ後味の悪い感じで。

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