沿岸から二海里以上離れる事の怖さ

#海での時間

それは彼が外洋の海技免状を取ったばかりの暑い夏の日の事だ。今日も彼はエンジンルームに裸の上半身を喰われている。彼が頭を突っ込んでカチャカチャやっているのは、無理して買った28フィートの古いプレジャーボートだ。ここ数年の沿岸での釣りや海水浴に活躍中の彼のお気に入りだ。V8ガソリンエンジン2機掛けのそいつは確かにイイ音をさせるが、まるで燃料がタンクから漏れているかのように燃費が悪い。その上燃料計が壊れているというから始末も悪い。

この男が連日船に喰われているのには訳がある。なんと大胆なことに大島行きを目論んでいるのだ。だから暖気が終わるまで左エンジンがご機嫌ナナメな理由を探している。もしもに備えて追加のビルジも予備のバッテリーも装備した。ワイヤー類のグリスアップも完璧。GPSがたまにグズるのは考えない事にしたらしい。

出発の日、台風が発生しているが関東に来るのはまだまだ先だ。ご機嫌ナナメな左エンジンの回転を高めにキープしたまま凪の海原へ。富津を越えて外洋に出ても波は穏やか、エンジンもナビも絶好調だ。30ノット以上で滑走すれば大島はすぐに姿を現した。岸壁の船着き場が確保できず、沖に停めて泳ぐ羽目になったが、それもイイ思い出に成るだろう。

次の日は大島巡りでのんびり。翌日は東京へ帰る日だ。カギを首に吊るした上で口にくわえて船まで泳ぐ。機関、電装問題なし。燃料も満タンに入れて貰ってさぁ出発だ。まるでドライブから帰るかのような気軽さだ。往路のドキドキももうない。台風の影響だろうかうねりがかなり大きくなっているがナビがあれば行き先は見失わない。

どれぐらい進んだろうか、既に目視では360度海だ。うねりを滑走している衝撃のせいかナビのGPS信号がたまにグズっては戻る。船は左へ行きたがる。うん?左か?うねりは左後方からなのにおかしい。だんだん口数が減った彼の様子を同乗者達も気にし始める。左の出力は全開だ、右の回転数を抑えてなければまっすぐ走らないしエンジン音もおかしい。ついには出力不足で着水、あっけなく左エンジンはストールした。『死ぬ!』彼は咄嗟に思った。

あせる気持ちか彼の思考を停止させる。再始動は出きるがギアを入れても力が出ない。『とにかく湾内まで進もう、このうねりの中での点検は無理だ』頭は恐怖でパニック寸前、『片肺』運転での帰港を目指すことにした。朝から出ていて良かったとか、燃料満タンに入れて貰って良かったとか、現状打破の役に立たない慰めが頭の中を支配する。人間は極端な痛みは感じないように出来ていると聞いたことがある。それと同じだろうか。

気がつけば当たり前のようにナビが動いていない。うねりの頭で陸地は見えず、うねりの下では毎回恐怖が襲う。携帯のアンテナを確認してほっとしてみたり、GPSがないから通報しても現在地が伝えられないと落胆したりと同乗者達も必死だ。『同じ釜の飯』ならぬ『同じ船の恐怖』か。

羅針盤は暴れ狂って読めないが、太陽の位置と腕時計で進むべきおおよその方向は判る。知識としてキャンプ場でひけらかした事はあったがまさか役に立つとは。房総半島の南端さえ目視で捉えられれば・・・皆が目をさらにして大海原の木の葉にしがみついている。まるで昔見たネズミの大冒険アニメの様に。

数時間後、彼とその仲間たちの姿は保田の漁港にあった。震える足を押さえる者、泣いている者様々だが、心の奥では皆が達成感に酔いしれていた。古い刑事ドラマのイントロさながら意気揚々と食事へ向かう。そして満腹な彼等はその高揚感と一体感からか、危険な判断を下す。

『このままマリーナへ帰ろう』

心配する漁港の集金のおじさんに別れを告げ、点検もせず燃料も入れずに片肺で出港、どっかの海賊気分だったのだろうか、全て上手く行くと皆が思っていた。片肺での航行は揺れが少なく快適で、夕日をバックに皆が思い思い談笑していた。日没前に帰ってこられたと彼が胸を撫で下ろしたその時『ドドーン』と轟音が響いた。船内から歓声が上がる。近くのネズミの国からのプレゼントだ。皆が自分達の強運を確信し満喫していた。

花火を見ていたら暗くなるから帰ろうとは誰も言い出さなかった。彼も使った事のない航行灯のスイッチを確認している。確かに海から見る花火は最高だった。しかし彼等の強運はここまで。錨を上げた時、何事も無いように辺りは静寂に包まれた。そして『キュルルルル、キュルルルル』セルモーターの音が虚しく響く。

アイドリングさせていた右のエンジンのプラグがカブッたか?再度錨をおろして点検するがいかにせん暗い。エンジンルーム全体を照らすライトが必要だ。左のエンジンも試したがやはりかからない。その時彼の懐中電灯が油水分離器を照らす。瞬間彼は覚った『ガス欠だ』と。片肺、滑走無し、長時間回してガソリンが足りるハズがないと。後は皆様ご想像の通り、レスキューを手配して黙々と待ち。燃料を補給してもらって片肺てマリーナへ生還しましたとさ。

携帯電話がなかったらと思うとぞっとしますね。後日談ですが左エンジンの不調はエキマニの破損(デカい穴空き)で、交換するにはエンジンを降ろすしか無いと言われましたがそんなお金はありません。上から順番にあれやこれやと外しまくって、自分達で交換しようとしましたがやはり外れませんでした。安物買いのなんとやら。

おしまい

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