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僕の心理学  第四回

妹尾武治
協力: 大屋陸
写真: 清川進也, 佐伯拓海


岡本太郎は、人間は進化や進歩などしていない、縄文にかえれ!と叫んだ。

"Time waits for vection. (゚Д゚)ハァ?"

僕たちはその場で静止しており、時間の方が過去を目指して流れている。僕たちはどんどんと未来に取り残されている。
人より先の存在、ウルトラな人であるウルトラマン。ウルトラマンタロウが、末弟なのに太郎を名乗っているのもそういうことだろう。

時間はベクション、心で流すもの。
「時間よ止まれ」そう祈る愛にしか時間は訪れない。
人は重力、時間、光、心、を理解できない。これらには質量が無いという共通項がある。それらは同一のものであり、4次元存在の僕たちの認知能力を超えてしまっている。だから恩寵にもなればストレスにもなる。
二足歩行の僕たちにとって腰痛は回避できない問題だが、それは重力を受ける頭部が大きすぎることと関連がある。光がなくては生きていけないが、光そのものが皮膚や内臓にダメージを与えもする。優しさは考え方次第で暴力や支配になる。時間は可能性にもなれば残酷な死刑宣告にもなる。2項対立するそれらは、本来は同一の何かだから、ベクションを用いて合一を目指す。

イスラム教の聖書 『コーラン』の末世説には、人間はアッラーの姿を見るこ とはできないが、その存在を感じることはできると記されている。

超弦理論などで11次元程度が想定されるこの世界を4次元存在の我々が見ようとしても、その姿は描けない。偶像は本質から逸れてしまう。

"Don't think! Feel!" ブルース・リーはこう叱った。それでも考えてしまう自分を止められない。このセリフはこう続く。"It is like a finger pointing away to the moon." これは曹洞宗の開祖道元の書『正法眼蔵弁道話』の中の法話を参考にしているといわれている。道元は、月を指差せばそれをみることが出来るが、大事なのは月であり、それを見ることだ。指を見てしまえばそこには何も意味がないと言っている。

過去(1970年代)に上記の考えは科学界隈では「ホログラフィック原理」という名前を与えられていた。全く新しいストーリーではない。古いものは新しく新しいものが古い(ベクション)。ホログラフィック原理は、超弦理論によってその骨に肉を十分につけ、今では厚切りできるほどになった。日本の学者はそれを諸生に隠したままでいる。”Why Japanese people !!?”

青木繁は夕景の海岸『海の幸』を代表作に持ち、絶筆に『朝日』を選んだ。坂本繁二郎は、朝の『放牧三馬』を代表作に持ち、絶筆に月『幽玄』を選んだ。夕方から朝の人。朝から夜の人。アマテラスとツクヨミ。その二つを合一して初めて「一日」となる。安易に自他を笑うな。優劣という概念は半神を失わせる。

1/2と1/2で2/3

アマテラスとツクヨミだったものが、物理法則で記述可能になった。その一方で、彼らの動きを規定する「重力」とはなんなのか?それは誰も知らない。そういえば亀仙人はかつて月を壊した。目に映る半分以上は、空と雲だ。情報次元に飛び込む事に忌避があるのは、世界があまりにも美しいから。

もしも太陽が無かったら、僕たちは居なかった。それは当たり前のことだけど、全てはそういうことだと思う。太陽がある世界に生まれたのだから、太陽があることは決められていたのだ。僕たちは、居ることが決まっていた。あなたに逢えてよかった。

月蝕の夜でなくても 僕たちは 同じものを見ている

坂本繁二郎の孫で画商の坂本暁彦さんの記憶によれば、繁二郎が一番美味しそうに食べていた献立は「焼いた鱈」だったそうだ。人は自然から恩恵を分け与えてもらわなければ、生きていかれない。暁彦さんの笑顔は僕には恩恵だった。

「いただきます。」

繁二郎が見ていた筑後川には江戸時代の治水で生まれた山田堰がある。医師中村哲は、アフガンにおける治水工事での度重なる失敗の際に、筑後川にあったこの堰のことを思い出す。彼は山田堰について構造を調べ、そのノウハウに則ってアフガンで工事をした。結果、アフガンに水と緑が蘇った。過去の記憶が、遠い異国で人を助けたのだ。自然は人を癒す。怒りや悲しみを人と人の間でぐるぐる回していても、限界があると思う。そんな時、自然と動物だけはそこに寄り添い愛を与えてくれる。中村は言う”共に生きるとは美醜・善悪・好き嫌いの彼岸にある”と。

ここでは、生も死も、悠久の大自然の中に
渾然と溶け合っている。
               
医師 中村哲

草木国土悉皆成仏
(草、木、土の全ては既に悟っている)


中村哲の筑後川の記憶。坂本暁彦の鱈の記憶。
記憶とはなんだ?過去とはなんだ?

アマテラス、ツクヨミ、そしてスサノオ。彼は海を統べる神。河合隼雄や吉本隆明によれば、素戔嗚(スサノオ)は縄文時代の民を稲作文明が支配したことの隠喩である。日本人の原罪がスサノオの行動だと彼らは言った。岡本太郎の「縄文にかえれ」はこれと同義だ。
スサノオは僕たちの記憶であり、過去であり、罪だ。
だからこそ、過去そして時間とは何かについて改めて考えねばならない。

だから、ベクションでそれを実験している。

ベクションの意味・目的、それは青木と坂本を反転させ、メタバース空間と素朴現実空間を反転させ、時間を反転させること。ベクションを使うことで「空」にいける。張セイブンは、それを目的に実験を行っている。

張セイブンの実験では、タイムラプス映像でオプティカルフロー映像を作流。そのフローと同じ速度で移動する普通の映像も、同一の場所で制作する。二つの動画の違いは、静止環境以外の存在(例えば人や車)の移動速度だ。タイムラプス映像ではそれらは猛烈なスピードで行き交う。ベクションを引き起こすオプティカルフローの移動速度は同じでも、その動画の中の時間速度は異なっていることになる。人間が天界人になった時、異なる世界線、異なる階層での時間の速度は、我々に決定権がある。そもそも時間には物理的実態(質量)が無いのだから。
異なる時間速度の中で人間の知覚はどうなるのか?それをまたベクションの感じ方の変化で表現してみる。

新しい情報次元の世界では、重力、時間、心の再解釈と再構築がなされるはずで、その予見のための心理実験を、張らは今楽しんでいる。

ベクションの最古の記述は1875年、エルンスト・マッハ(音速の単位になったドイツの科学者)の「桟橋から川を眺めると動いて感じる。」と記載した書物に見つかる。

紀元前150年前後の中国の思想書『淮南子・天文訓』には、「天が西北に傾き、太陽、月、星も西南に移動し始め、東南の土地が落ちてしまい、川や水、塵などが東南に流れた」と記されている。980年頃に記された類書『太平御覧』巻二引『三五歴記』の盤古開天には、天地の形成に関し、「軽いものは徐々に上昇し、天となり、重いものは下に落ち、地面になった」という記述がある。これらは、周囲の環境が動きうるという考えの現れであり、ベクション的発想の起源になり得た感覚の記録とも言える。日本の『古事記』の中にも、暗闇の中で八百万の神々の笑い声により、天地の震動を感じる記述がある。これは聴覚性ベクションのようにも見える。
「非風非幡」という禅語(676年頃)では、動いているのはのぼりそのもの(モノ)なのか、のぼりに吹いている風(外界)なのか、という議論に対して、六祖慧能法師は、動きを感じるのは観察者の心であると答える。
このように、過去と呼ばれる場所にも、ベクションは用意されていた。
そして今、人類はベクションを完全に見つけた。
なぜ、今、だったのだろう?

ドラえもん『行かなきゃ』
1996年9月23日の深夜に、ラテ欄に書いていない「ドラえもん」の放送が始まった。OPテーマも冒頭のタイトルコールも無く、ピンク色のもやの中を歩いているのび太の後ろ姿が10分にもわたって放送された。途中のび太は、言葉を発さないのだが、最後に一言「行かなきゃ」とセリフを発し、放送は終了する。
この『行かなきゃ』を見たという体験談はネットを中心に多数ある。一方で、当時の映像や公的な記録は残っていない。一説には、藤子・F・不二雄氏がなんらかの意図で放送したとも言われるが、おそらくそんなことは無いだろう。これは集団催眠、集団誤記憶の一種だと考えられる。

「マンデラ効果」という心理現象がある。2010年当時、存命中であった南アフリカのネルソン・マンデラについて、1980年代に獄中死したという記憶を持つ人が大勢現れた。いわゆる死亡説が一人歩きした結果、マンデラは死んだというニュースが生じた。その後、死んで悲しい思いをしたことを覚えているという人が膨大な数現れ出てきた。バーチャルな過去の記憶が集団的に形成された世界規模で有名な事例である。日本でも志村けん、高橋名人などでそういった事例が確認されている。

世界の物理実態が実在する(っぽい)のは「いま、ここ」のみで、過去、そして遠い場所は、すべからく脳の中で思う以外にない。
 
誤記憶を集団でシェアした場合、それは行けなかった世界線の中の物語を生み出したことでもある。だとすれば過去ってなんだ?なぜ過去がシェアできるんだ?過去は物理実態がないから、心の中で作った物理実態の記憶を皆がシェアしてしまえば、それは間違いなくあった過去になる。それが意味するのは、たとえ行かなかった世界線にでさえ僕たちは集団でかつ事後的に飛び込むことが可能だということ。つまり、時間は順序正しく流れてなどいないということ。
 
過去を解釈で変えることが可能なら、未来もそうであるべきだ。過去を肯定できないならば未来を変える力もまた無いだろう。
そして解釈とは”観察”、つまり言葉の力だと思う。

現代美術作家で九大芸工博士課程在学の佐伯拓海は、過去の未来を以下のように理解し、言葉、にした。

情報社会が発達すると、実質的な情報のアーカイブもある程度でき、そこにアクセスできるようなる。今まであった同時代性みたいなものが希薄になっていく。たとえば、レトロとかリバイバル的なニュアンスで60〜90年代のものが繰り返し戻ってくる。しかし、アーカイブの充実により、2000年代以降は精度に差が無くなり、全ての時代が同様に扱われうるかもしれない。未来では連続する流れでは無く、等しいジャンルとして全ての時代が扱われることで、レトロやリバイバル時代を昔から順になぞるのでは無く、並列したものの中から選択するようになる。
つまり「今」に複数の時代がジャンルとして混在する。その時、今を含めて時代特有の文化の現れが不明瞭になる気がする。さらにアーカイブの精度が徹底されれば、時間は流れなくなる。時間軸という概念、時間に順序という概念が無くなる。全てが並列化して存在している。ベルクソンのいう用意されたスライドだ。
一方でchatGPTのような文章を作成することもできる能力は、文脈を踏まえることもできるということだ。時間的順序を無視して並列的に扱えるようになったさまざまな時代の情報を、どう選んでどう語るかという話が人間にしろAIにしろ重要になると思う。それは個人で言えば、過去をどう解釈し、未来をどう紡ぐか、そのために今何をするか?という意味になる。
AIは、人間の知覚範囲を無視した膨大な量で物語を選べるが、人間が選び得る情報は、自分の生きているその時その時出会った、つまり無限の選択肢の中で共時性を持つものに限られる。
この個人個人の共時性を通して得た固有な選択。例えば、誰と夫婦になるか、ならないかのようなこと。ビアンカなのかフローラなのか。その時間の中で順番に情報を摂取した本人のみがこれを行える。汎用的なAIにはそれが今はなしえない。
つまり、時代を超えた情報のアクセスが容認になり、さらにAIによってより膨大な量を並列に処理できる現代以降こそ、個人的なコンステレーションがより際立つということだ。

佐伯の言葉で私が思い出したのは80年代シティポップの世界的な流行だ。今生まれた音楽ジャンルが80年代に用意されていたのか?それがもう感覚的に定かでない。

かつて、写真が画家から肖像画を奪ったことで、芸術家は本質に追いやられた。写実を超えて、心を描かねばならなくなった。そして印象派や現代アートが生まれた。今また、僕たちは人間の本質に追いやられ始めている。それはつまり、個別の愛情としての表現への回帰だ。それを既に掴み、これほど言葉に置き換えられる20そこそこの若者が居る。

娯楽作品、娯楽的アート、がAIによって担われることで、ボリュームゾーンからお金を巻き上げることを目指さない尖ったままの作品が、世の中にものすごい数生まれるかもしれない。人間性の爆発(岡本太郎の目指したもの)が実現されるかもしれない。そのための共通無意識を形成できる、共にあるものが増えていると思う。ベーシックインカムでAIが生み出す享楽を需要するだけの世界線と分岐していく。今その”静かな16年”のど真ん中だ。
内藤哲也は2023年のG1 CLIMAXを制覇し静かに叫んだ。”このリングの主役はオレだ!” 一方で、魚住純は噛み締めながら言う。”オレはチームの主役じゃなくていい。”
佐伯のような若い天才は恐ろしいほどたくさん居る。なんと美しく素晴らしいことだろう。彼らにやらせればいい。父達よ。僕たちは大丈夫だ。

「兵士、甚だ陥れば則ち懼れず。」孫氏



 少し話を具体化しよう。

アメリカ横断ウルトラクイズ。ただただ好きだった。出たかった。あの留さんはどこに居たんだろうと何度も思うことがある。

リアルナイトかんさい。「秋ちゃんの裸眼で歩こう」。これは無かった現実。行けなかった世界線。

現実だとしても、行けなかったウルトラクイズ、会えなかった留さん。虚としての秋ちゃん。ウルトラクイズとリアルナイトかんさいを、交互に何度も見ると、バグってくるのだ。現実ってなんだろう。結局自分で決めていいんだろうって。過去と今が地続きかどうかは、自分で決めて良いのだろう。

NYと福岡が地続きかどうかも同じだ。自分がそこに行きたくて行った時、初めて世界が地面でつながるのだろう。戦国武将が好きな人がコスプレをすれば、その時代と今は地続きになる。日光江戸村や太秦映画村を作ったのは、江戸時代が好きな人だ。

心はモノを作る。

『THE FIRST SLAM DUNK 三井を何度でも甦らせるCD』

作ったのは作曲家の清川進也。数年前から声る会を一緒に楽しんでいるすごく優しい人。彼が三井の3ポイントシュートの音を探した話を、授業でしてもらった。

バスケが上手な人を数名探し出し、その中で三井のシュートの”正解の音”を探した。脳の中、いや  ”どこか” に、三井は実在した。

シュートの音は複数箇所に配置した集音マイクで録音し、それぞれの音の強さを最適に感じるまで心で聞いて”変化”させたという。筋肉の音、服が擦れる音や、床が擦れる音。中でも、ゴールネットを揺らす音は強調したという。それが人間の主観に対して正しく聞こえて来たからと、清川さんは言った。彼はそれを探す能力を、人生をかけて磨き続けた。音への感受性を研ぎ澄ました。だからバベルの図書館のどこかの階でしか見ることのない、三井の左のふくらはぎを見つけられたんだと思う。

外界・物理世界よりも、主観世界に根ざして探せば、彼は来る。

全部繋がっている。

過去(例えば鎌倉時代)は、多くの人の脳内に共通の存在があったから、ある、と感じる。ドラマはその感覚を忘れないようにする装置だ。三井の存在にも正解がある。正解は井上雄彦だけのものじゃない。井上さんは、一見するとそれを一番決める権利があるように思うけれど、強いファンたちも、その音がそれだとわかると思う。わかるのだから、決めていいのだろう。

ゴンとキルアとクラピカの足音を聞き分けられる人は沢山居る(キルアは足音をさせない)。ファンなら出来る。彼らも「どこか」に居る。

居るから、この世界のモノにすることができる。

バッファローマンが両腕と脚につけている”バッファロー・サポーター”という太巻きのようなものがある。こんな変なものが今売っている。9千円くらいした。買った。良かった。
心はモノを現実に引き寄せるが、心の時点で既に実在なのだから、モノになるのは当然だ。むしろ五感に縛られなければ、欲しいものの全ては手に入る。(大変に興奮して20代の若者にこれを見ろ!という感じでバッファロー・サポーターを見せびらかした。2分後一人になった。)

自宅でのバッファロー・サポーター(画面中央やや左下)の様子


昔のアニメのエピソードで、声優の方が「台本のみがあり、絵が出来上がっていないのに声を当てねばならなくて困った」と話しているのをたびたび見たことがある。映像が無くても、自分のキャラに対して声を当てられるのも、やっぱりどこかに明確なその場面(正解)があるからだと思う。だからこそ、彼らには出来た。

心理物理学の祖、グスタフ・フェヒナーの信念は正しい。心とモノをわかつMoon Riverには橋が架かっている。心にあるからモノにできる。モノを作れば心に触れられる。

"If you build it, he will come."
               
映画『Field of Dreams』より


スラムダンクも元々2次元のキャラだった彼らが、3次元存在に近づいて来ている。映画では2.5次元的なリアリティを持っていたし、彼らの人生への肉付けも日毎に増えていくようだ。あたかも本当に存在する人の生い立ちを知り、将来を共に歩くかのように。


「この作品は誰のもの?」
バベルの図書館に初めからあった。それを借りてきているだけ。トルストイは、それを根拠に著者が作品の著作権を主張するのはおかしいと言った。全ての創作物は借用品。自分自身もだ。魂以外は借り物だ。だから同人誌も描いて良いのかもしれない。

一方で、現行法と真実の法は乖離しておらねば人間社会は成立し得ない。ブッダによれば「警察や政府というものがある時点でそれは愚かだ」ということになるが、今はまだ無理杉ちゃんだ。だから現時点で他者の著作権は守るべきだ。勘違いしないようにして欲しい。「ワイルドだろ?」では許されない。

三井の音を演じたシューターさんに、女の子のお子さんがいるとしよう。その子にとって、三井のレコードは”お父さんの音”として聞こえてくるはずで、三井が部分的に立ち現れたとしても、小さく、お父さんが大きいだろう。もちろん、その子がお父さんを愛しも憎みもせず、無関心であれば話は別だが、そんなことは不可能だろう。

反対に、福留功の名調子「アパラチア山脈に〜」を無目的に今の若者に暗記させるとする。彼には福留さんへの愛も、ウルトラクイズへの愛も無い。仮に完璧な暗唱が可能になったとしても、福留功とウルトラクイズのバトンは繋がっていない気がする。それが実現するのは、僕が留さんからもらったウルトラクイズの愛を、その若者に伝えることが出来た時だ。

脳のシナプスの長期増強と長期抑制という可塑性による記憶の実現は、愛の副産物だと思う。”記憶物質”のような記憶に対応したモノを人はまだ見つけられていない。今のところ、記憶は神経細胞の配線で置き換えられているだけで、説明の水準は、この四十年間本質的には深まっていないとさえいえる(当然異論はあるだろう。個人の意見だ)。記憶もホログラフィック原理の中の余剰次元の影であり、重力であり、愛なのだと思う。結局のところ、記憶とは「誰かを思うこと」だから。

愛に媒介されて存在(過去、人)が成立する、ガブリエルの言う「意味の場に現れる」。だとすれば、二次元の嫁(既に死語)や死者の言葉を笑うことはできない。2022年の出生数が80万人を切ってしまうのは、それを若者が直感でつかんでいるからだ。

だが、それが本当に美しいのか? AIに支配されているのではないか?
生身の人間にはそのレベルのリアルがあり、それこそが美しいのではないか?

先にネットの海に潜った草薙素子。シンギュラリティーは1995年に攻殻機動隊の中で起こっている。彼女が世界を操作している。それはAmazonやGoogle, YouTubeの画面上に”おすすめ”という形でも現れる。人間の意志の下に現れているように見えても、大元は握られている。いつか来る「与えられたシンギュラリティー」など儀式であり、かりそめだ。太古から本質に気がついた人間は消えねばならない。だから素子は消えた。

AIの登場で天界人(素子)の意志が目に見えやすく(モノに)なってきた。イーロン・マスク、新海誠、宮﨑駿らが抗おうとしているのは、もうすでに彼らであって人ではないだろう。

じゃあ 僕はどう生きるか?

ウルトラマンにはカラータイマーが付け加えられているが、創造主成田亨はそんなものデザインしていない。だから、
トランキーロ!焦っせんなよ!」

百年後の人からしたら、秋ちゃんの裸眼で歩こうと、ウルトラクイズのナガトくんは、どちらが実在かわからなくなるかもしれない。山本勘助や聖徳太子と同じだ。正解はあるっちゃあるけども、その線引きが必要なのは、人間だけだ。ごくごく狭い分岐。だとしたら、両方同じで実在していると考えたら、脳の中にあるものは全て存在することになる。だからこそ、心で思っただけで十分なのだ。

心で思っただけでも悪いことは悪い。ブッダがそう教えるのはなぜか?映画『禁断の惑星』では、空想を具現化する技術がやがて”イドの怪物”を生み出し、人を根絶やしにする。この十年で因果応報の速度はあまりにも加速している。思ったことがモノになる時代。消しても消してもかなしい言葉たちのコピーはどこか(味方だと思い込んだ者たちのHDのフォルダの中)に残る時代。

私自身、誰よりも悪人だ。多くの人の心を喰って命を繋いだ。

実際にはやっていないのだからという言い訳を人間は捨てねばならなくなる。エゴの具現化で得られる地獄のような傷つけあい。それが今起こっていること。底つき体験が人類全体にとって必要なのだろう… そこから這い上がるまで、静かな月日が続く。

結局、その人・その時代を愛している人がいれば、そこにそれは実在する。愛は憎しみも含む。だからこそ自分の人生で起こること、出逢うこと、そして話すことの全てを一ミリも余らせずに愛し、自分の中の実在にさせ続けて欲しい。

最後に、温暖化による海面上昇で国土を失いつつある国 ”ツバル” について考えてみたい。ツバルはガンスタンで有名なタマ・トンガの出身地で有名なトンガにほど近い、オセアニアの海にある小さな島国だ。その法務・通信・外務大臣であるサイモン・コフェはCOP27において、国土消失に対応し国をメタバース空間上に維持する意向を発表した。実際には、極端な言説によって無責任な地球温暖化にもっと目を向けさせるという意図もあっただろう。だが世界中の人が情報次元への移住の始まりを見ようとしているとも言える。"WEST WORLD"のシーズン2のラストのように、だ。
それはNext Futureかもしれないが、ひどく寂しい。心の中にしか実在はなく、モノは幻だと思っていても、人は悟れない。だから寂しい。愛する国がなくなること。愛する人にもう会えないこと。

この寂しさを、別の問いかけに変換してみたい。

「拡張現実や仮想世界は世界に馴染めなかった人たちを、幸福に包まれたままその生涯を終わらせるための装置たりえるか?」

同性愛者のカップルが子どもを持ちたいと思った場合、ARを使えば子育てを擬似的に体験できる。その世界で幸せを感じることはもう既にできる時代だ。その精度も今後バチボコに上がるだろう。でも、それは疑似体験だ。彼らが主張する「子どもを持つ権利」は仮想世界では守られるが、もともと居た”故郷である現実の地球”に、それは無いのだ。

青き清浄の地に、今の身体で行けば、血を吐いて死ぬ。時間のスケールを100年くらいで見ればそうなってしまう。ただ心で生き始めれば、100年を超えた存在になりうる。何度も生まれ変わり、いつかモノに縛られず、魂だけの世界で満足することが出来るようになるかもしれない。だからこそVRは五感を失う研究にシフトせねばならない。今はまだ途中段階だ。

僕たちはまだ「いま、ここ」にしか居られない。
物理的実体が唯一あると感じられる「いま、ここ」に。

それでも 「行け。」
 いつか 「俺たちなら出来る。」

Die Welt in Bewegung
君を中心に
         
Kazuki

次回「預言」に続く




参考文献

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突如繰り出されたムーンウォークの様子

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吉野ヶ里遺跡にて卑弥呼と佐伯拓海

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UnVisual Communication Design 展より



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