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骨と暮らすことのQ&A

突然ですが私は趣味で標本を作ってます。
幸い、大学という素晴らしいツテがあるのでそこから入手したり、そうでなければ食肉用として売られている豚足なんかを自分で購入して作ってみたりしています。
作り方は以前にも記事にしましたのでよかったらご覧ください。

一人暮らしの部屋には、豚やら羊やらの頭が飾ってあり、なんだかにぎやかです。私だけでひとりじめするのはなんだかもったいないような気もするので時々は大学に連れて行って生の標本に触ってもらう機会を提供することもあります。

そんなときに、感心されることももちろん多いですが言われるのは
「サイコパスなんじゃないのか」
「そのうち人に手を出すんじゃないのか」
「グロテスクだと思わないのか」
「こんなのを部屋において恐くないのか」
「恋人がドン引くのではないか」
…等々💦
そりゃ言いたくなる気持ちもわかりますし、何かを言われて間に受けたりマジレスしなんかもちろんしません。私は骨の髄まで動物が好きなだけですって答えるだけです。

でも、一度きちんと自分の考えを言葉にすることで、私自信が納得したいと思ったので記事にすることにしました。
Q&A形式で進めていこうと思います。


Q.標本をどうして作ろうと思ったの?

A.大学の講義で羊の頭が貸し出されたから

私が骨を欲しいと思ったのは大学1年生の頃の解剖生理学系の講義で、1人1つ羊の骨を貸し出されて骨を見ながら講義を受けたことが直接的なきっかけでした。
平面の教科書と違い、骨の軽さ、繊細さやち密さ。そういうものを自分の手で触れて感じたことで、学びを一気に身近に感じ面白く思ったものです。
そして、骨に触れた時、生きていた時はこれが皮膚の内側にいたんだ、これが頭を形作っていたんだ、この歯で草を食んで、この眼窩には目玉が入っていたんだ!と考えるとすでに死んだその子が愛おしくてたまらなくなりました。これが家にいたら、いつでも触れられたら。生きていたその子にいつでも思いを馳せることができるのにな、そう思ったのがきっかけでした。
まあでも初めて標本を作ったのはそこから2年たった後で、当時は自分が実際作成するなんて夢にも思っていませんでしたが。

Q.サイコパスなんじゃないの?

A.たぶん違います

正確にお医者さんにかかったことがないのでわからないですが、私は動物の生き死にに関して、言葉を選ばなければその辺の人よりよほどまともな感覚を持っていると思います。
その理由として畜産の現場にいくつも入り、あるいは肉を研究し、肉を食べることに向き合い続けてきました。動物を愛し、そのうえで命を自分の手で終わらせる経験をしてそれでもなお、肉を食べるという選択をとっています。
正直、誰かが生産し誰かが殺した死体を何も考えずに食べている、肉は肉だとそこで思考をやめて、かつて自分と同じ温かい血の流れた命だったものだなんて少しも思わないで当たり前に享受している。そのほうがよっぽどサイコパスではないか?と思ってしまう私がいます。
ただ、私も高校生の頃までそっち側だったわけだし、畜産は意図的に見えなくされているので自分で学びに行かない限り向き合うことはないわけだし、別に私と同じ経験をしてから物をいえなんていうことは思わないです。

ただ標本を作っていると
標本=骨=死
日常から遠ざけられているはずの死が、あまりにもわかりやすくそこにあるからそう思われているだけなのでしょう。
あるいは。精神異常の愉快犯が小動物を殺めるところから始めるなんて話はよくありますから(よくあってほしくないけど)人間の生存本能的な部分で私に警戒心を持っているのかもしれませんね。

先に言っておきますが私は、これまでもこれからも絶対標本目的で動物を殺めません。
私は本当はどんな動物にも死んでほしくありません。寿命まで生きて、なるべく幸せであってほしい。心の奥底ではいつだってそう思っています。
でも、それは無理です。絶対に。だからこそ、有害駆除や食肉用途など何らかの理由ですでに死んでしまった彼らを、私の、そしてまわりの人たちの学びの役に立てたい。好きだから私と一緒に暮らしてほしい。それ以外の気持ちはないです。そういう1つの弔いとして標本を作っているのです。

Q. そのうち人間に手を出すんじゃないの?(笑)

A.出すわけねえだろたわけ。

まず大前提として私本当は、本当にグロテスクなのだめで、サスペンスドラマとか医療ドラマ見れません。家族が見ているとき、人が死ぬシーンは耳をふさいであ~あ~と声を出して目をきつくつむっていました。まじで無理。
それに、単純にほしいと思いません。昔からドクロが好きじゃないです。
同じ種類の生き物だからでしょうか、動物なら生きていた時代を想像してきゅんとするけど、人間は圧倒的に気持ち悪さが勝ちます。
ただ学びたいという理由ならレプリカの入手しやすさはいろんな意味でその他の動物種より圧倒的に手軽なんじゃないかなと思います。
人間は好きな人を除いては骨の髄まで愛せないので御免です。勘弁してください。
補足として別に人間嫌いというわけではありません。人間の創造性や心、強さは好きです。だから単に心が宿っていない肉体には興味がありません。気持ち悪いだけです。

Q.グロいのだめなのに標本は作れるの?

A.割と作れます

何度か経験はありますがやはり絶命する瞬間を見るのは苦手で、唇を噛んで耐えます。正直苦手だからと目を背けていい立場にはいないのです。
でも、標本にさせていただく動物たちはもう死んでいる場合が大半なので、淡々と処理をしていくだけです。
まあ、皮をはいだり目をくりぬいたり、そういうのは気分がいいものではありませんが、血がだばだばでるとかはないので割と平気です。
むしろ、頬の筋肉のつき方や耳がどんなふうにはえていてどんなふうに神経が繋がっているのか、アルビノのうさぎの目は血が抜いてあるとどう見えるのか、そういうのは触ってみないとわからないものです。毎回良い勉強をさせていただいています。

Q.祟りとかこわくないの?

A.気の持ちようだと思うし、肉が冷蔵庫に入っているときあなたは祟りを恐れますか

でも標本を作るとき、自己満足ですが、私のところに来てくれてありがとう。って伝えるようにしています。そして彼らへの感謝の気持ちを絶対忘れないようにしています。

Q.そんなんじゃ恋人ができないのでは?

A.余計なお世話です

どんな趣味だって、趣味を相手方に隠さないといけないような恋愛は不幸だと思います。
私は、絶対に、譲りません。
それに私の趣味に理解がある人しか選びません。
心配にも及びませんから!ふん!!!

Q.標本は最後どうするの?

A.可能であれば私のお葬式のときに私と一緒に火葬します。

死ぬまでうちのかわいこちゃんたちを手放す気はないということです。

Q.標本を趣味にしていてよかった意外なことは?

A.関わる人の振り分け

趣味で標本づくりというと大体の人間を図ることができます。
標本づくりっていうだけで話も聞かず否定してくる人、サイコパス扱いしてくる人、下世話なことを言ってくる人。そういう人間は私にとって大概面白くない薄っぺらい人間であることが殆どなんですね。逆に食いついてくる人、そういうものだと受け入れられる人は、知的好奇心が強く話していて退屈しない人や、視野が広く関わっていて損のない人である場合が殆どです。そういう点で1つの指標となる標本づくりという趣味には感謝しています。



あとがき
こんなところでしょうか。
語気が強かったら申し訳ないです。
言いたいことは、標本を趣味にしている人が必ずしもサイコパスではないぞ!ぷんぷん!ということです。
そして、標本はその動物の死を以て、必ずなにかを与えてくれるものです。その点でうちの子たちは私の宝物です。


もし何か気になる点等ございましたら、質問して頂ければお答えいたします。
ここまで読んでくれた皆さん、本当にありがとうございました。

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