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牛久保戦国紀行

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1.地名「牛久保」の由来


 「牛久保(うしくぼ)」は、『和名類聚抄』の「三河国宝飯郡宮島郷」であり、「とこさぶ(常寒、常荒、常左府)」とも呼ばれていました。
 この地を牧野氏(後に「常在戦場」で有名な長岡藩主家)が領すと、「牛窪」と変え(新領主が地名を変えるのは、織田信長が井口を岐阜、徳川家康が引馬を浜松、明智光秀が横山を福智山と変えたようなもの)、後に万葉仮名を使って「久しく保つ(未来永劫、領する)」の心で「牛久保」と表記を改めました。(長岡へ行っちゃいましたけど ^^; でも、寛永14丁丑年(1637年)の長山熊野神社の造営に際し、長岡藩主・牧野忠精は52両も寄進してるけどね。)上の額は、牧野忠精が、長山熊野神社に寄進した「寝牛の額」です。「牧野家丑年吉事」(一色城や牛久保城への入城も、長山熊野神社の造営も丑年)で牛なのでしょうけど、牛は牛頭天王社の使いではなく、天満宮の使いであって・・・もしかして、麒麟を牛と見間違えたのでは??

(1)地名「牛久保」の由来①『牛窪記』上「生立事


 中比、「牛久保の庄」と改むる事は、後土御門院の御宇、武将・尊氏の末流・一色刑部少輔、此城をかまふ。后に牧野田左衛門、是に遷りて東三河の式法を定め、瀬木、三橋、伊奈、佐脇、若宮の地侍等、与力と為る。然して明応二癸丑歳、子息・牧野出羽守保成継ぎて、此の城を護る。或る時、地主の神・稲場牛頭天皇の社に詣ず。御手洗に「金色清水」とて窪溜りの霊水有り。保成、是を見給ふ処に、野飼の牛とをしきが、やすらかに伏せりける。保成を見るより牛起きにをきあがり、前膝慇懃に折れり。さながら武将の威を恐るるに似たり。角て、保成、一色山王正円寺の阿闍梨、龍雲山三明寺別当牛頭山大聖寺の社僧を招き、件の物語ありければ、各(おのおの)「武運永昌の祝義を演られけるは、先規の考例は知らず、さしあたりて、世俗の諺を以て思ふに、君、此の庄より起こりて、威振るい、近国を隨へ給ふべき前告たるべし。其の上、牛頭本地・素さのをの尊、陽神に陰徳をそなへ給ふ御事也。面に両角あるは、威力を示す也。形黒く瞋(いか)れるは、愚かなるにひとしく、慈悲を内にするの教へ也。自ら其の徳に同じゅうして、御子孫繁栄し、処は稲場、種ひろこ(「ま」か?)り、国民の喜びをのみ聞せ給へき事、疑ひなし」と申しければ、保成、感悦かぎりなふして、引き出物など賜り、「常左符長山」名を合(「捨」か?)て、「牛窪の庄」と改めらる。則ち、諸僧、神主へ仰せ付けあって、法楽の沙汰、厳重也。此の天王と申すは、熊野権現、未だ此の地に勧請なき時より、「地神三社」の第一也。

【大意】明応2年(1493年)、牧野古白の息子・保成(「孫」の誤り。あるいは「成勝」の誤り)が参拝すると、御手洗(両手を洗い、口を漱ぐ水場)である「金色清水」という窪溜(くぼだまり)の霊水のところに放し飼いの牛であろうか、1匹の牛が眠るように伏せていた。ところが、牧野保成が近づくのを見ると起き上がり、前足を折ってお辞儀をするような仕草をした。驚いた牧野保成は、近くの名僧や神主を呼び、どういう意味であるか解釈してもらう(占ってもらう)と、皆が皆、「牛は牛頭天王(武神・スサノオ尊)、出会った場所は「稲場」であるから、種が拡散する。つまり、あなたはこの地で力を付け、その力は近国にまで及ぶようになるということだ」と解釈したので、牧野保成は喜び、「常左府庄」を「牛窪庄」に変えた。

「常左府(とこさぶ)」地名の由来(牛久保八幡社縁起)
 奈良時代(天平神護年間)、毎年飢饉が続き、人々が亡くなったり、離散したりして、土地が荒廃したので「常荒(とこさぶ)」と呼ばれた。(「とこ」は「常(常時)」であり、「床(大地)」でもある。)三河国司は、民衆の心が荒(すさ)んでいくのを憂い、心の拠として八幡神・応神天皇の御子神(若君)・仁徳天皇を祀る「若宮殿」を建てた。明応年間に応神天皇も合祀して社名を「八幡社」とした。
(地名の変化は、宮島→常荒→牛窪→牛久保。)

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※「窪溜(くぼたまり)」:神社の入口の石の窪み(凹み)に水が溜まった場所、御手洗(みたらい)。参拝の前、牛のように四つん這いになって(跪いて)両手を洗い、口を漱ぐ。「湧き出る霊水で、どんなに晴天が続いても枯れない」という。不敬発言ではあるが、「雨水だろ」「神主が注ぎ足してるだろ」と言いたい。たとえ湧き出た清らかな霊水であっても、牛が飲んだ後では、気分的に口を漱げないな。

※「牛久保三社
・牛久保八幡社(当時は「若宮殿」。豊川市牛久保町常盤)
・牛久保八幡社天王社(豊川市南大通。当時は豊川市中条町大道)
・長山熊野神社(当時は「熊野権現」。豊川市下長山町西道貝津)

※出典:『牛窪記』元縁10年(1697年)頃成立
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1078085/108

(2)地名「牛久保」の由来②『牛久保密談記』「牧野家の丑年吉事」

一、明応二丑の歳、田内を改め、牧野左衛門尉、始めて一色の城に来たり玉ふ。道の辺(ほと)り、天王(牛久保三社氏神)御手洗・金色(こんじき)の清水の窪溜(くぼたまり)に、野飼の牛とおぼしきが、やすらかに伏す。往来の人ににれ打ちかみ、皆々よけてぞ過ぎにける。かかる所に牧野、瀬木にて出生の公達引き連れる。彼(かの)御手洗を通らせ玉ふに、くだんの牛、おきあがり、道をひらゐて通し奉りければ、御供に候ひける石黒九郎兵衛、「是は目出度き御事■■(「かな」?)。世の諺の如く、牛起きにおきさせ玉ひ、必ず国の主になり玉はん事、うたがひなし」と申し上げければ、成時、いつにつぐれて打ちゑみ玉ひながら稲場へあがらせにけるにや、思はず牛頭天王の小社あり。「扨(さて)は当社の御加護」と御悦喜浅からず、一色の城へ入らせ玉ひ、社僧・牛頭山大聖寺住侶、神主、某し御前に召され、成時仰せ出され、金色清水の窪たまりに牛が居たるに因て、里の名を改むべしとて、信心のこらし奉幣の儀式、厳重也。此一色とこさぶを「牛窪」とぞしてされける。
(中略)
一、享禄二己丑歳、牛窪民部丞(若名新次郎。右馬允とも)新に城を築き、「恒例に任せ、牛窪の文字、万葉書きにすべし」と、「牛久しく保つ」と云ふ心にて、「牛窪」を「牛久保」になしたまふ。(長山ともさぶの地、城になる。)

【大意】
一、明応2癸丑年(1493年)、本姓「田内」(「田口」とも)を「牧野」に改めた成時(入道古白)は、瀬木城(豊川市瀬木町)から一色城(豊川市牛久保町岸組)に移った(一色城は一色刑部少輔時家の城であったが、家臣・波多野全慶に討たれて奪われ、さらに波多野全慶を牧野古白が討った)のであるが、その路次、若宮殿(現在の牛久保八幡社)の境外末社・天王社の御手洗池である金色清水の窪溜(くぼたまり)に、野飼の牛と思われる牛が、静かに寝ていた。「にれ噛み」(反芻)をしており、通行人は避けて通った。牧野成時が通りかかると、その牛は起き上がって道をあけた。これを見た従者(案内役の長山郷の庄屋)の石黒九郎兵衛は、「これは目出度いことである。必ず国主になれるでしょう」と言ったので、牧野成時は、いつにない最上の笑みを浮かべて稲場に上がると、なんとそこには牛頭天王社(豊川市中条町大道)があった。「さては、先程の牛はこの神社の神(牛頭天王=スサノオ)の使いであったか」と喜び、一色城へ入ると、牛頭天王社の社僧である牛頭山大聖寺の住職を呼び、信心をこらし、「金色清水の窪溜に牛がいたので、地名を「一色とこさぶ」から「牛窪」に変える」と宣言した。
(中略)
一、享禄2己丑年(牧野成時の一色城入城から36年後の丑年である1529年)、牧野民部丞成勝(牧野古白の次男)は、一色城の横に新城「うしくぼ城」を築き、「牛窪」の「窪」を「久しく保つ」の心で、万葉仮名の「久保」に変えて「牛久保」とした。(これは、長山熊野神社の神の「常に天地久く護り(守り)給ふ」に通じるネーミングである。とはいえ、牧野成勝が天文3年(1534年)4月に若宮殿(現・牛久保八幡社)へ出した寄進状には「牛窪郷」とある。)

「牧野家丑年吉事」
明応2年(1493年)癸丑 牧野成時(入道古白)が一色城主となる。
永正2年(1505年)乙丑 牧野成時(入道古白)が今橋城を築いた。
享禄2年(1529年)己丑 牧野成勝が牛久保城を築いた。
・・・
中にはこじつけ(?)も・・・。
永禄8年(1565年)乙丑 牧野成定、徳川家康に属し、家康、三河統一!
これは永禄9年(1566年)のことのようで・・・。

※出典:中神行忠『牛久保密談記』元禄14年(1701年)(『牛久保密談記』は、『牛窪記』を加除修正した本です。『牛窪記』には「?」な記述が多く、私も読んだ時に加除修正したい気分になりました(笑)。)ちなみに「密談」とは、「熊野権現の正体は徐福であるとする密談」です。
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11F0/WJJS07U/2320105100/2320105100200010/mp000060

2.牛久保の戦国の名所


 愛知県豊川市については「豊川の戦国の名所めぐり」という無料パンフレットが発行されているので、名所巡りはストレスフリーです。

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36:牧野成定公廟と天王社
37:上善寺。「長篠の戦い」の直前の徳川家康陣所。
38:善光庵。袈裟懸け地蔵(身代わり地蔵)。
39:長山熊野神社。長山稲荷社とJR飯田線を挟んで向かい側。
40:長谷寺。山本勘助の墓。
41:牛久保城跡(遺構無し)
42:牛久保八幡社(旧・若宮殿)。「とこさぶ」地名発祥地。
43:大聖寺。一色時家と今川義元の墓。
44:一色城跡(土塁の一部が現存)

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以上、掲載されているのは9ヶ所。残念なのは、「大林勘左衛門貞次屋敷跡」が載っていないことですが、まぁ、行っても標柱が立ってるだけですので。(山本勘助は牛久保で生まれたのではなく、別の場所で生まれ、牛久保の大林貞次の養子となり、寺町公園にあった彼の屋敷で育ったそうです。)

3.大聖寺

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大聖寺(愛知県豊川市牛久保町岸組)は、一色城の南西にあります。
大聖寺は、一色刑部&今川義元菩提所であるにも関わらず、小さすぎ(狹すぎ)ます。昔は広くて一色城に接していたのでしょうか? それとも、天王社の神宮寺に過ぎず、昔から小さな寺だったのでしょうか?(次の一色刑部少輔時家の墓の案内板には、一色城内にあったとあります。)

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「一色刑部の墓
室町時代足利の一族一色刑部少輔時家の墓である。永享11年宝飯郡長山村に築城して一色城と称した。此処の窪地に大牛が横臥していた因縁により牛頭山大聖寺を城郭内に建て牛頭天王を祀った。文明9年時家は豪臣波多野全慶に殺され、16年後には全慶も亦牧野古伯に討たれ城主は牧野氏となる。永正2年古伯吉田城を築いて豊橋へ出て次男成勝を瀬木城より呼んで城主とした。之より牛窪城と改まる。」(現地案内板)

 ──「寝牛」の話は、牧野成時入道古白の話か、一色刑部の話か?

 はたまた、牧野成勝(牧野古白の三男)の話か、『牛窪記』にあるように牧野保成(牧野古白の子ではなく、孫)の話なのか、謎が増えましたが・・・さて、さて、大聖寺といえば、一色氏より、牧野氏より、今川義元で有名ですね!

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 ──今川氏真の御遺体はどこにあるのでしょう?

 太田牛一『信長公記』には、「今川義元の首は、同朋衆(陣僧)が、清須城での首検分後に駿府に持ち帰った」とありますが、通説では、「今川義元の首は、鳴海城主・岡部元信が、鳴海城の開城と引き換えに受け取り、輿に乗せて駿府に持ち帰った」です。『三河物語』の著者・大久保彦左衛門は、「岡部元信は首だけ持ち帰った。なぜ胴体も持ち帰らなかったのか」と怒っており、伊束法師『伊束法師物語』には、「鳴海城主・岡部元信が、鳴海城の開城と引き換えに受け取ったのは、今川義元の首ではなく、首のない胴体」だとあります。

 また、東光寺(愛知県西尾市駒場町)には「今川義元の首を鳴海城主・岡部元信が埋めた」という伝承が有り、ここ大聖寺には、「今川義元の首の無い胴体を今川家臣が埋め、手水鉢を目印に置いた」という伝承が有ります。

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「今川義元公墓所
 戦国時代の駿河・遠江・三河の領主今川義元は永禄3年(1560)5月19日、尾張桶狭間の合戦で織田信長の奇襲にあって討ち死にしました。
 その時、首をとられた義元の胴体を家臣が背負って当地まで逃れ、この寺に葬って、とりあえず石の手水鉢をのせ墓石代りにしました。それが、「義元の胴塚」と言われる由来です。
 嫡子上総介氏真は永禄6年(1563)父義元の三回忌をこの寺で営み、父の
位牌所として寺領を安堵しました。
 その後、墓は整備され、毎年義元の命日には、地元の人々により慰霊祭が行われています。
                   豊川市教育委員会」

今川氏真が3回忌を行ったとなると、今川義元の胴体がこの寺で眠っている可能性が高い??

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以上です。
感想は、
・大聖寺のすぐ横を飯田線の電車が走っていてビビった。
・大聖寺の横の家の表札を何気なく見たら「今川」とあってエモった。
・大聖寺で御朱印をもらったのはいいけど、よく見たら年月日が無い>_<
・・・
名所(全10ヶ所)は1km四方に集まってますので、半日あれば、全て見て回れますよ。徒歩推奨です。車で回る場合は、とにかく道が狭いので、ご注意を。

【参考文献】
※『続群書類従』第21輯上『牛窪記』
※牧野公奉讃会編『牛窪古記 』(『牛久保密談記』『宮島伝記』の合本)
※『三河文献集成(近世編上)』(『牛久保密談記』『菅沼記』の合本)
※『近世三河地方文献集』(『牛久保記』『牛窪記』他)
※中神基勝『訂牛窪記』

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